「枕草子」が描いた世界《其の24》
長徳2(996)年2月に清少納言は藤原斉信(ただのぶ)の来訪を受けた。斉信の祖父は藤原師輔で、伯父の子らが藤原道隆や道長となる。
斉信は、当初は道隆の中関白家にした親しく出入りしていたとされるが、道隆が薨去すると道長に接近した。定子の兄の伊周や弟の隆家が「長徳の変」で左遷されると同時に参議に任ぜられ公卿に列している。
斉信は967年生まれで道長の966年の翌年の生まれである。
かへる年の二月廿日よ日、宮の職へ出でさせ給ひし、御供に参らで、梅壺に残りゐたりし、またの日、頭の中将の御消息とて、「昨日の夜、鞍馬にまうでたりしに、今宵、方のふたがりければ、方違へになむいく。まだ明けざらむに帰りぬべし。かならずいふべきことあり。いたうたたかせで待て」と宣へりしかど、「局にひとりはなどてあるぞ。ここに寝よ」と御匣殿の召したれば、参りぬ。
「昨日の夜、鞍馬寺に参詣に行ったが、今夜、まっすぐ帰ると不吉な方角なので、方違えに行きました。明日未明に帰るはずです。どうしても言いたいことがあります。あまり戸を叩かせないで待っていてください」とのことであったが定子の妹の御匣(みくしげ)殿が、「局にひとりはなどてあるぞ。ここに寝よ」とのことであったので、御匣殿の局で寝てしまった。
ところが、頭の中将(藤原斉信)が来たようであったが、取り次いだ侍女が、清少納言に取り次がずに寝てしまった(よも起きさせ給はじとて臥し侍りにき)とのことで、なんと誠意のないやり方だろうと思っていると頭の中将の家来がきて「頭の殿の聞えさせ給ふ、『ただいままかづるを、きこゆべきことなんある』」とのことであったので、「そこにて」と返事をした。
「そこ」とは、斉信とだけで会うのを避けて御匣殿も同席してもらった。
これには事情があった。藤原斉信の来訪の1ヶ月ほど前に定子の兄の藤原伊周と弟の隆家は、花山院の牛車に弓を掛けるという愚かな事件を起こし、これが「長徳の変」となることで伊周・隆家が左遷され定子が剃髪することになる。
「長徳の変」のもととなるこの事件は伊周と花山院は藤原為光の娘たちに通っていた。伊周は自分が熱を上げている三の君に花山院(花山院は四の君だった)が手を出そうとしていると勘違いし矢をかけたが、花山院が逃げ帰り、伊周と隆家が引き上げたあとに両者の家来たちが乱闘を起こし、花山院の家来二人が死亡した。
この事件が起きたのが藤原為光邸の前であったので、おそらくであるが藤原斉信が道長に通報した。その道長が検非違使の長官であった藤原実資に連絡したのだと考えられている。ちなみに藤原斉信は藤原為光の息子であった。
藤原斉信からすれば、自分の姉妹を巡る色恋を巡る乱闘であったので、花山院の恥でもあり、自分の姉妹の恥でもあることであった。伊周らの名を出さなくても家来同士の乱闘として報告すればもみ消すことは可能であった。が、中関白家の汚点を道長にもたらせば、大恩を道長に売り込めると考えた。
検非違使の長官であった藤原実資に道長が通報すると実資は即座に一条天皇に報告をした。一条天皇は定子や伊周と親しい仲であったにもかかわらず、伊周・隆家を処罰することを決めた。ここが不思議なことであったが、ともかく伊周は大宰府に左遷となった。
つまり、この事件が公になる発端は藤原斉信であった。その斉信と二人きりで会うことは、清少納言も道長に寝返ったこととなることを嫌ったため定子の妹の御匣殿に同席してもらった。
亡き道隆の供養で集まった時、頭の中将(藤原斉信)の漢詩を朗じたのを聞いて「なほいとめでたくこそおぼえ侍りつれ」と清少納言が定子に言えば、「まいて、さおぼゆらむかし」と仰せらる。つまり、「あなたは、なおさらそう思ってるんでしょうね」と定子が言ったことを考えると清少納言と藤原斉信は、何やら男女の関係があったようななかったような雰囲気がある。