生命の40億年をやり直したとき

一卵性双生児でさえ、産道を出てくるタイミングのわずかな違いから個体差になっているのに、40億年をやり直して同じ進化をするはずもない。
様々な事象を捉えて学者が「単なる偶然」という飛躍を述べることは好きではない。摂理には「偶然」はないというのが自説。「偶然」というのは、人間の認知でしかない。すべての摂理は客観的事実で構成されている。
たまたま起きた出来事によって、進化の道筋は大きく変わってしまうと考えたわけだ。進化は予測不可能で、生命の歴史のテープを何回かリプレイすれば、そのたびに異なる世界に辿り着くだろうというのである。
これが当たり前の見解であって、「偶然」という逃げ口上を学者が軽々に口にするなら、それは「科学」ではなく「意見」でしかない。
イルカとサメは系統が異なるのに形態が似てきていることを「収れん」というのだそうだ。
「収斂がしょっちゅう起きている」という事実は、「生命の歴史をリプレイしても同じような結果になる」ということを、示している
生物の形態には限りがあるので、どういう道筋をたどったとしても「収れん」によって、ほぼ同じ結果にたどり着くという考えもあるらしい。
ショウジョウバエの実験のなかには、まったく同じ環境であっても、それぞれの集団が別々の方向に進化していくことを示したものもある。これは、自然淘汰とは別の進化のメカニズムである遺伝的浮動が働いた結果と解釈されている。
一般的な受精で考えると、父母の1対の遺伝子から、その片方が子に伝わる。どちらの対立遺伝子が子に伝わるかという「偶然?」の効果によって、遺伝子頻度が変化することを「遺伝的浮動」という。このメカニズムが働けば、進化の行き着く先は、自然淘汰によるものとは異なることもあることになる。
この記事で、いいことを言っているなと感じる部分がある。
私たちヒトは、地球に生物が棲める約50億年間のおよそ8割が経過した時点で、やっと進化した。私たちのような知的生命体が進化するのに、40億年もかかった。しかし、地球はあと10億年もすると灼熱になるらしい。
つまり、残りはあと10億年。もう1回リプレイするには時間が足りないことになる。
そもそもヒトが「知的生命体」であるという断定自体に間違いがあるように思う。ヒトも虫も植物も、実は誕生して死ぬまで生きているだけの存在でしかない。
生きている間に何をするかは、時間をつぶしているだけでしかないことにおいて、知的も知的でないも噴飯物である。政治や経済だとにぎにぎしく騒ぎ立てるけれど、いかなる動物を超えている所業とは全く思えない。
それ以前は、あまり意識もしていなかったから単に記憶が薄いだけで、小泉総理以降石破まで、アホかマヌケの連続できている。この国際社会において英語もまともにできない外務大臣や宰相が国家のカジ取りして平和にやっていけているのは政治の力でも国民の努力でも、脂質でもない。
たまたま宰相がアホでもマヌケでもやっていけてるだけでしかない。しかし、それとて「偶然」ではない。とすれば、政治や経済とはアホかマヌケの所業が「必然」ということになる。