「政治的公平」から「公平」を考える

総務省がらみでメディアの「政治的公平」で騒動が起きています。「公平」で調べてみたら、「平等」という言葉も出てくる。政治的に「平等」は比較的簡単な尺度である。例えば全国民に1万円配るというような、頭を使わずに「平等」は確保できる。

公平」となると、言うほどには簡単ではない。例えばお金をバラまくとして、「金持ちには薄く、貧しいものには厚く」というのは簡単だけれど、感情的に納得できる「公平」感は実現不可能である。

政治的公平」については安倍政権における放送法への解釈に対する政権の関与が争点になっているが、2015年にNHKがクローズアップ現代という番組でヤラセをやったことに対して、時の総務大臣であった高市早苗さんが総務大臣としてNHKに「厳重注意」という行政指導をしている。

総務大臣による行政指導となると、かなりレアなことで、事実関係は不明であるものの、この時期にキャスターが変わる事態が結構発生していることとの関係を疑われてもしかたがない。

その時期の高市さんの国会答弁も、ほぼ、安倍内閣筋の意向に沿った内容のようにも思え、高市さん本人の考えとは異なっていても、大臣答弁は官邸なりだったように思う。

行政文書を「捏造」と切り捨てることは菅前総理大臣が官房長官のときの「怪文書」と同じ次元のような気がする。切り捨てるためには「証拠」「証明」が不可欠で、それを権力で押し切る姿勢には、およそ「政治的公平」は見当たらない。

公平」には、「正義」がなければいびつなものにしかならない。

イギリスのBBCで、ジャニーズ事務所の創業者・ジャニー喜多川氏(2019年に87歳で死去)の性加害について報じたドキュメンタリー番組が放映(3月7日:日本時間8日)された。東京都の日本外国特派員協会のZoom会見も行われたようだが、テレビカメラは3台しか入らなかった。

1999年に週刊文春が一連の報道をしたものの日本国内の他のメディアが追随することなく、疑惑についてほぼ無反応だったように、メディアがジャニーズ王国に忖度していることはありありである。

文芸春秋はジャニーズ事務所から名誉棄損で訴えられ歴然とした性被害が発生していたにもかかわらず880万円の賠償を命じられていた。

日本にもっと欲しいのは「司法的公平性」であり「報道的公平性」。「政治的公平性」などという言葉ほどに怪しい響きを持つものはない。政治がメディアに圧力をかけ、メディアが政治権力に忖度するようであるなら、どこかの独裁国家や全体主義国家と次元は変わらない。

そこにいるのは「裸の王様」であって、「公平」とか「公正」は、彼らの笑いのネタでしかない。

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