今さら考える「民主主義」

民主主義とは「ギリシア語のdemos人民)とkratia権力)という二つの語が結合」したものだそうで、「人民多数の意志が政治を決定することをよしとする思想や、それを保障する政治制度あるいは政治運営の方式」と言うことになるのだそうだ。

とはいえ「人民多数の意志」が必ずしも正しい保証はないし、「人民多数の意志」が多様に分岐したら、その中の多数が権力を持つことになるわけで、結局は「」の論理でしかないのが「民主主義」になる。

しかし、現実を見てみると「閣議決定」で憲法以上の判断をしている。これは決して多数ではない。むしろ閣僚と言う少数の権力者が「内閣」と言う密室で好き勝手に決定することが「閣議決定」である。これを裏付けているのが総理大臣という権力の権化による。ここで、閣僚が異論を唱えれば「閣内不一致」とかで内閣は解散することになる。

つまり、最高権力者の横暴や独善を認めるのが議院内閣制であるとも言えそうである。

さらに、それを裏付ける仕組みが「強行採決」である。与党と言う選挙で選ばれた議員の数で綱引きをするわけで、必ず数が多いほうが勝つ。また、同じ政党にいても多様な意見があるはずであるが、採決の時に異論は主張できない。それを「党議拘束」という。

党議拘束には議員各自の意見は不要な要素であって、政党が決めた意見に盲従することが前提であり、逆らえば「離党勧告」される。

ネットで「民主主義」を調べると、辟易とするくらいに長い解説があっちこっちに書かれているが、短い説明はあまりない。日本で生活する上では、日本の民主主義とは「閣議決定」「閣内不一致」「党議拘束」「強行採決」の4つのキーワードで説明することができる。

政治家になりたいとして立候補する人材には、政治家になって欲しい人材がいない(まれには例外があるかもしれないが)ということ。なぜなら、世が必要とする人材は人前に出て嘘八百述べようとも思わないし、どぶ板めぐって、有象無象と握手をしようなどとも思わない。そんなことでも敢えてしようとする人材に、人の上に立つ器の人材がいる可能性は低い。

本来、政治とは権力者と大衆の信頼関係で結ばれていなければならないはずである。選挙で選ばれたから信頼され人材であるとは誰も信じてはいない。逆を言えば信頼を得るために耳障りのいいことを言う人が当選する確率を上げるし、そもそも人気タレントであっただけでも有利になることが如実に示している。

票田と見れば、それがどんな集まりであろうが擦り寄って甘言を呈する。補助金助成金をばらまく族議員になる、献金などのバックボーンとなる大企業には優遇税制でバーターする。嫌韓を標榜しているのに、反日団体に呼ばれれば講演もするし献金もする。

聖徳太子が今の世にいて、このようなことをしてまで総理大臣になって人民のために良い施政をするとは思えない。

つまり民衆の幸福を願って「政治家」を目指すわけではない人々を選出するのが、選挙度であって、そこには「民主」のための「主義」など欠片も見られない。

これを当たり前と思わないで、制度の見直しをしなければ政治の「後進性」は度を強めていく。健全な野党が登場しないことにも構造的な原因があるのだろう。政治家の質が悪ければ、官僚を歯止めにしなくてはならない。官僚が力を持ちすぎることにも「後進性」があるが、政治家の失の悪さを少しでも防御するするためには必要悪である。

その官僚が室の悪い政治家に忖度するようになると、名実ともに「後進国」となってしまう。にもかかわらず、「民衆」に、質の良い政治を選ぶ手立ては与えられていない。

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