大鏡:其07《帝紀-醍醐天皇》

第60代 醍醐天皇(885-930)

宇多天皇の第1皇子といい生母は藤原胤子(いんし)。胤子は藤原高藤の息女。9歳で皇太子に立った。11歳で元服し13歳で天皇に即位した。夜の御殿から冠を被って自ら践祚の宣言をしたとのことである。

村上天皇だったか朱雀天皇だったか、いずれかが生まれたときに藤原伊衡(これひら)が、

ひととせに こよひ数ふる 今よりは ももとせまでの 月かげをみん
《1日を1年で数えれば今宵の百日は百年までの月(皇子)をみていることでもある》

と詠んだら、天皇自ら返歌を書いた。

祝ひつる ことだまならば ももとせの 後もつきせぬ 月をこそ見め
《その歌に霊妙があるなら皇子は百歳まで生きるから月(皇子)の盛運をみることができるだろう》

御陵は山科にあり「山科の陵」と呼ぶ。

  • 藤原時平と菅原道真の補佐を得て政務に励み「延喜の聖代」と言われる英名な帝であった。
  • 藤原胤子(いんし)の母は、(みや)(じ)列子といい宇多天皇の女御として醍醐天皇らを生む。
  • 父の藤原高藤(838-900)は、藤原良門の次男。娘の胤子(いんし)が醍醐天皇を生んだので晩年に内大臣になって没した。この父娘に関する話は「今昔物語」に詳しい。
  • 嘘のような話であるが、高藤が雨宿りした列子の実家は勧修寺になり、勧修寺の1キロほど東側に醍醐天皇陵があるのも偶然ではないだろう。
  • 藤原伊衡(これひら)は南家の末裔。父の藤原敏行は三十六歌仙の一人で空海に並ぶ能書家であった。
  • 醍醐天皇は紀貫之に命じて「古今和歌集」を撰集させている。

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