小林秀雄と俳句

小林秀雄は瀬戸物が好きで骨董屋に出入りしている。30年来の付き合いのあった骨董屋が死んで、その息子が小林秀雄を訪ねてきてオヤジの句集を出すので序文を書いてくれとのこと。

オヤジの日記に、序文を書くと約束したことが書かれている。

李朝の徳利を持っていて、それだけは売らないという。28年間、売れ、売らないとやっている。28年目に、酔った勢いで小林秀雄が、その徳利をポケットに入れて持って帰る。お前が危篤になったら返しに行く。それまでは、この徳利で酒を飲んでいると言ってるうちにオヤジは死んでしまった。

徳利を持って帰ってきた日の日記に、

毒舌を 逆らはずきく 老いの春

と詠んでいる。

句を詠んだ人間を知っており、状況を知っていればこその面白さがある。その意味では蕪村や芭蕉を超えている。

鑑賞とか批評とかは、実態からは遊離している。

平安時代の和歌には、「鑑賞」などという考えはなかった。「蜻蛉日記」という作品を後世に残した「道綱の母」は、道長の父である兼家の第二夫人であった。第二夫人になる前の兼家とのやり取り。

逢坂の 関やなにやなり 近けれど 越えわびぬれば なげきてぞふる
こんなに近くにいるのに超えねばならず逢坂の関が立ちはだかっていて嘆き悲しんでいます

と兼家から和歌が届く。

超えわぶる 逢坂よりも 音に聞く 勿来をかたき 関と知らなむ
超えかねて嘆いている逢坂の関よりも、もっと超えにくい勿来の関ですよ

と返歌を出す。こんなやり取りをしながらコミュニケーションは「和歌」を通じて行っていた。

谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」で、国経から時平に連れ去られたのちに、滋幹の母が産む子が敦忠であった。この藤原敦忠は、時平が一夜を明かした女性に、翌朝に「後朝(きぬぎぬ)の文」を届ける役割を担っていた。通っている女性とSEXした翌日には手紙を書いて届けることが当時の貴族の習慣になっていた。

そんな和歌が、後世には「作品」になっているわけで、当事者だからわかる機微は、作品鑑賞では分からない。

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