弥生から明治までの生活痕跡が残る遺構発見

先日書いた「エタの源流」に登場していた「佐比里(さいのさと)」すなわち「賽の河原」から7キロほど南西に川を下ると宇治川と木津川が合流して、淀川になります。

桓武天皇が奈良から出てきて作ろうとした都が「長岡京」になりますが、藤原種継の暗殺があり、その背後に奈良の東大寺の勢力の関与があったことから弟の相良親王を殺害すると、怨霊に祟られることとなります。そこで都を移したのた「平安京」になります。

なぜ、桓武天皇や秀吉がこのあたりの地域を使おうとしたかを考えれば歴然ですが、答えは「」になります。

鴨川、宇治川、木津川が合流するところに「淀津」があります。ここを掘ったところ弥生時代から明治までの2千年間、人々の生活が途切れることがなかったことが分かってきたのだそうです。

弥生時代の地層からは東海、瀬戸内地方からの土器が多数発見されたそうです。鎌倉期の井戸の補強に平安後期の瓦が使われていた高級な瓦だったようです。

wikiによると周辺の住居跡には全戸に井戸があったり、生活雑排水を流す下水があったりしたとのことです。

人々の生活において資源、食料そして水は不可欠であり、経済活動においては水路が不可欠であったわけで、そのことは現在も全く同じと言えそうです。

ちなみに、伏見城から少し南東に下がった萬福寺のちょっと北側あたりにある木幡と言うエリアに藤原一族の墓が展開しているとのことですが、正確には誰がどこの墓に入っているのかは不明だそうです。あの、天下を席巻した道長のお墓も、「これだろう」というようなもので、千年の歳月がもつ「無常」には、さすがの道長も逆らえないということのようです。

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