成島柳北について少し語ろう

1837年3月22日(天保8年2月16日) - 1884年(明治17年)11月30日
江戸時代末期(幕末)の江戸幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、明治時代のジャーナリスト。

「岩倉使節団・米欧回覧実記」を読んでいます。

132ページに、一行がパリに滞在しているタイミングと同じくして成島柳北が東本願寺の法主と同行してパリに来ていた。そこで、木戸や大久保と幕臣であった成島との違いが際立っているのが、面白いなと思いました。

柳北は蔵前2丁目で生まれたそうです。蔵前橋と厩橋の間になりますが、ここって幕府の蔵があったところと思いますが、柳橋の北に位置しているので、そこから「柳北」と名付けたのだろうと思います。

次兄(大目付になっている)の孫が森繁久彌だそうです。奥儒者となり、家定、家茂に侍講したが、狂歌で揶揄して解職される。wikiによれば木戸と親交があったと書かれていますが、「回覧実記」では、木戸の日記に「鳴嶋の周旋で、、、」と1回きり書かれているぐらいの関係じゃないかと書かれています。

明治6年1月22日に柳北は岩倉、木戸、大久保らに同行して天文台、高等法院、監獄などを見物している。両者の日記を比較すると、政府の一行は高等法院などを詳しく記述しているが柳北は監獄の描写に力を入れているそうで、戊辰戦争の勝者と敗者の心情が現れていると分析する人もいる。

帰国後、木戸から文部卿の就任を要請されるも受けず、安田善次郎と共に日本最初の生命保険会社(現、明治安田生命)を設立している。

「安田は、向島の柳北の家を訪ねたときは出された座布団を決して敷こうとはしなかった程、柳北を尊敬慕っていた。」と言うことも書かれていますが、単に尊敬ではなく安田は金で買った足軽身分であり、かたや奥儒者の身分の違いを意識してのことと思います。安田善次郎とは、そういう人であったのでしょう。

同じ幕臣でも、田舎大尽と陰口をきかれた福地源一郎とは対照的だったとのことです。

その中間が勝海舟あたりかもしれませんが、明治期の勝に対して森銑三が面白いエピソードを書いていますが、いずれ勝海舟の本でも読んだらその時にでも触れます。ちなみに、勝は新政府から爵位をもらっています。

それからすると、木村摂津守なども触れなければならないでしょうね。かれも明治になって生活が困窮しても新政府には任官しなかった。福沢諭吉が彼を助けた。あるいは、岩瀬忠震とかと広がっていきますが、表層的な伝記的な話だけでは著者が礼賛しているだけなので面白くはないので、どうやって彼らの人となりに触れることができるかですね。

その、人となりですが成島柳北が羊羹について書いたエッセーが「虎屋」のサイトにあがっていました。

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