日本に科学を導いた志筑忠雄という人

志筑忠雄は宝暦10〈1760〉年-文化3〈1806〉年、長崎の蘭学者。当初はオランダ語の通訳をしていたようで、蘭書の翻訳に身をささげた。著述の半分近くは西洋天文・物理学関係の蘭書からの訳出で、「真空」「重力」「遠心力」「引力」などの言葉を創出しニュートン物理学を日本に初めて受け入れた。

また、オランダ語の文法に関する著述もあり「品詞」の概念を日本の受け入れさせることでオランダ語学のレベルを飛躍的に向上させた。

鎖国」という言葉も、志筑が「鎖国論」の中で編み出している。

言語学の理論的側面としては荻生徂徠や本居宣長などの考えを取り入れている。西洋科学に対する熱意がありながら、ケンペルの「鎖国論」においては排外的な注釈をつけており葛藤が見える。

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と、ここまではwikiの「志筑忠雄」の欄の概要になる。そこで、図書館を調べたら2冊該当したので予約を入れた。「日本思想体系・洋学・下」に志筑忠雄による「求力法論」が掲載されているが、約50ページなので時間をかけて読んでみようと思う。

日本思想体系」の冒頭に「蘭学資料研究会」が発足する経緯が書かれていた。上野図書館(現在は国際子ども図書館)に蘭学関連の古書が3,630冊あり、それを整理する目的で学者が集められたのが昭和28年のこと。この図書館は、そもそもは湯島聖堂にあった徳川幕府のコレクションであり、いったんは浅草に移され「浅草文庫」と言われたと書かれているが、正確には「蔵前」の7番目の米蔵だった。

その図書を上野に移した後に、窯業を一時、7番倉庫でやっていたことがあり、ゴットフリード・ワグネルの進言によって東京開成学校の中に設置された「東京職工学校」が、現在の東京工業大学であり、将来の「東京科学大学」になる予定。

図書館が上野に移ってから、その図書館に樋口一葉も行ったと一葉日記に書かれている。

ガリレオ」というYouTubeの動画があったので、それも参考にしてみると、なかなか興味が尽きない人物であることが分かってきた。

志筑にとどまらず、開国の時期には福沢諭吉西周などが、西洋の概念を漢字化することで、日本の学問のレベルが格段に向上することができたのが、明治期の日本の強みとなった。その先駆者としてあげられるのがマテオ・リッチ(1552年 - 1610年)という宣教師。

かれは、日本に世界地図を持ってきており、「地球」などという言葉を作っている。日本で布教するためには漢字文化の先駆者である中国を先に布教しようということで中国に渡る。

幾何学」という単語もマテオ・リッチが中国で作ったとのこと。そうした用語が日本に伝わることで日本の知識レベルが楽に向上することができた半面、それが宣教師であったがゆえにガリレオの「地動説」のような、宗教に不都合な知識は取り入れられなかった。

地動説」を日本に初めて伝えたのが本木良永(享保20〈1735〉年ー 寛政7〈1794〉年)。長崎の出島で通詞をしていた。彼らが使っていたのが蘭仏辞書だけであった。「惑星」も本木が作っている。

その出島に登場するのが志筑忠雄である。「動詞」「代名詞」のような品詞から「現在」「過去」「未来」のような時制も作った。当時の日本には、日本語の文法という認識がなかった時代であった。

その志筑忠雄が追及していたのが宇宙の起源であったという。どのように太陽や惑星が誕生したのかを考えだしたが、ニュートンへの理解に、中国からの「」と「」を組み合わせて宇宙を理解していた。

これらの学問が「サイエンス」となってパッケージで日本に入ってくるのが文明開花直後の日本であったことが、日本の近代化に大いに役立った。

"science"の訳語としての「科学」という語は、元来は、前近代の中国の「科挙之学」の略語に由来。この語は、幕末から明治初頭にかけては、専ら「分科の学」(=個別学問)の意で用いられていたが、明治10年前後に、改めて"science"の訳語として用いられるようになったとされる。

日本における「科学」・「技術」の受容

サイエンスが日本に入った時に、該当する用語が無く、そこに英知を尽くした人々がいたことで、サイエンスを日本に定着させることができた。昨今のIT用語に関していうなら、単にカタカナにするだけでしかなく、概念が日本に定着することができていない。ここにイノベーションが起きない大きな弱点となっている。

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