有名であること

オリエンタルラジオの中田敦彦さんが、「【松本人志氏への提言】審査員という権力」という動画を上げたそうです。「松本人志ばかりが審査員をしているのは業界のためにならないのではないか」ということです。

これに対して、さまざまな意見が噴出しているようです。似たようなことは、きっとあっちこっちの業界で起きていると思います。

権威が生まれ、利権が生まれると、それが構造になる。その構造を受け入れ、それを前提にしていくと、使う側にも使われる側にもバーターが生じ、気持ちの上で(だけでもなく金銭の上でも)貸し借りができてくる。

デメリットだけかというと、あながちそうでもなくて、そんなことで組織が回ることは往々にしてあることです。権威と権力と言えば天皇と藤原の関係のようなものです。

芸能の世界での権威と権力がどのように作用するのかはわかりませんが、一番重要なことは「才能」よりも「有名」であることになるようです。「有名」を生み出す錬金術に権威と権力が使われるわけです。

このことは、昔読んだ自費出版の本に書かれていました。いい内容の本を書いても売れるわけではない。逆に内容がどうということがなくても有名な人が書けば売れる。

「有名」という換金システムをいち早く芸能の世界に作ったのがジャニーズなのでしょう。有名にしてもらうために性被害を受け入れなければならなかった当時の少年たちには、厳しい現実だったと思いますが、何かを得るためには、何かが喪失されることはよくあることですが、それが犯罪じゃ、社会から抹殺しなければ社会は「範」を示すことができません。

芥川賞や直木賞があるのも似たようなもので、出版業界として有用なアワードになっています。審査員が、審査される作品より素晴らしい小説を常に書いているのかといえば、そのようなことでもなさそうです。芥川や直木が審査するのであるなら別格ですが、単なる権威付けで彼らの名前を使っているだけに過ぎません。

仮に、今の世に芥川や直木がいたとしても、彼らが審査員になることはきっとないでしょう。小説を作る能力と、他人の書いた小説を評価する能力は別物だし、そもそも人の人生に関わるような下賤な仕事に手を付けるような芸術家はいないと思います。

ベートヴェンやモーツァルトが、他の人作況した曲の良し悪しを評価するとは全く思えないのと同じことです。

つまりは「定性(主観)」的な尺度において、なにを「是」とするかというと、不可欠なのが「権威」になるわけで、それゆえに業界が生み出している「権威」であることの方が多そうです。

それに比べれば野球の大谷さんや、将棋の藤井さんは「定量(客観)」的な尺度で存分に才能を発揮していて、すがすがしさを感じます。

蛇足

中田さんの動画で、こっそり消した部分があるということも盛り上がっています。「俺で笑う為には知性が必要」と言った部分を消したようですが、この話を聞いて、子供のころ上野の鈴本の寄席に行ったとき、三亀松が都都逸をやったのだけれど客が反応できなかったら「今日の客にはちょっと難しかったかな」というと、それが受けたのを思いましました。

「知性」という言葉は、必要な言葉ではあるけれど、口に出るといつ聞いても、誰が使っても、嫌な言葉であることは間違いがなさそうです。

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