東京の歴史

先史時代

先史時代の遺跡から黒曜石で作った石器が見つかっている。黒曜石は伊豆の神津島が産地として有名で、関東に広く流通していたとあるが、誰がとってきて、誰が加工して、何を目的に流通したのかは解説が書かれていない。

古墳時代

日本書紀には534年に武蔵国で反乱が起き大和朝廷が助けている。この時点で大和朝廷の権力は関東に及んでいないとしているが、助けを求めるとして、なぜ、それが大和朝廷だったのかとか、助けるとしてその恩賞をどうしたのかなど、かなり不明なことが多い。

天皇は27代の安閑で、宣下、欽明、敏達、用明、崇峻、推古、舒明(敏達の孫)、35代の皇極天皇となる。皇極天皇の眼前で中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害する。それを助けたのが鎌足でその息子の不比等が大宝律令を手掛ける。

律令制時代

現在の東京は「武蔵国」の一部で、武蔵国は埼玉全域と神奈川の東北部を含んでいた。街道では東山道に属していたが、771年に東海道に属することとなったと書かれていたので、この時代は各国は五畿七道に接続している必要があったようだ。

ちなみに、五畿は大和、山城、河内、和泉、摂津。七道は東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道。戊辰戦争が終わってから付け足したのが「北海道」。

白村江で大敗して唐の仕組みを取り入れたとのことであるが、戦争に負けた原因として統治制度に原因を求めたのかもしれないけれど、それを唐に教わるのも不思議な話。とはいえ、全面的な官僚制度にはできず、氏族尊重も残り、平安初期に様々修正を加え藤原北家が独占的地位につき白河天皇による院政までの間を貴族社会が権力を席巻した。

新羅や高句麗からの亡命者が多数日本に来ており、朝廷は渡来人に武蔵への移住を命じている。

中世

武蔵国は台地が広がっており牧畜に適しており馬飼部として多くの「牧」が作られた。その中から武士団が生まれてくる。保元、平治、治承、寿永などの乱がおきる都度に坂東武者が活躍するようになる。中小武士団は秩父氏、川越氏、畠山氏などの傘下に吸収されたりしながら豪族となっていく。

北関東の伝統的な豪族と異なり、鎌倉幕府ができると武蔵武士は御家人となり幕府を支えた。12世紀になると豊島郡に「江戸郷」が登場し、ここを本拠とする江戸氏も興る。これ以降、「江戸」と呼ばれるようになる。

近世

扇谷上杉の家宰であった太田氏が台頭するも、小田原後北条の領国となるが秀吉に敗れ家康が駿府から江戸に入る。

1867(慶応3)年の徳川慶喜による大政奉還と1868(慶応3)年の王政復古のクーデターによって江戸幕府が崩壊し、同年5月3日(慶応4年(明治元年))の江戸城開城によって江戸は新政府の支配下に入った。

7月1日、新政府は江戸府を設置し、9月3日に江戸が東亰(後に東京)と改称される。

注意すべき事項

江戸府も東京府と改称されて、1869年に明治天皇が皇居(東京城、旧江戸城)に入ると、東京は近代日本の事実上の首都となるが正式な「遷都」ではない。正式には「奠都」とされる。

法律上では、東京が首都であるとは明確に定義されていない。ただし「都」には天子の宮城がある首府としているので東京は事実上の「首都」である。

主としては前島密が江戸遷都論を主張した背景として、北海道の開発を考えると江戸が国家の中央であるということと、すでに大都市としてのインフラが整っていたことが大きかったが、両都論もあった。

「明治」という元号は天皇がクジで決めた。行幸にかかる費用(11,300両)は京阪の富商が負担した。天皇の東京行幸のお祝いとして東京市民に酒2990樽、するめ1700把が配られたとのこと。

江戸城が東京城になり、天皇が入ることで「皇城」となり、全焼後に再建し「宮城」とし敗戦後の昭和23年に「皇居」と呼ぶようになった。

ちなみに天皇が神様になるのは明治20年ころからのようだとのことで、その背景を調べる必要がありそうだ。

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