1944(昭和19)年に起きたサマール沖海戦は電探戦だった

俗に「電探」、正式名「電波探信儀」。日本海軍のレーダーの呼称。「要素技術は既に相応のレベルにまで達していた」とwikiには書かれている。

昭和11年にレーダー研究の提案をしたが却下された(先が読めない権力者がいたのでしょう)。その後、イギリス、ドイツで戦果を挙げているとう報を受けて急遽本腰を入れることとなりヒトラーの裁可をもらって設計図を持ち帰り製作を始めたのが1941年。

1944年10月25日にサマール沖海戦が起きる。戦艦大和が主砲を撃った唯一のケースであり、スリガオ海峡海戦とともに日米がレーダーで砲撃しあった海戦となった。

栗田艦隊は武蔵を失うものの戦力を温存したままレイテ湾手前にあるサマール沖に至る。米海軍第7艦隊第77任務部隊第4群第3集団「タフィ3」との距離は3万2千メートル、大和は4万8千メートル、金剛・榛名は3万5千4百メートルで難しい距離ではあった。

日本側の砲撃の成果についての記録がないようで、正確なところは分からないものの、レーダーの性能は両軍ともに「大差ない」と報告されている。

ようは、光学式より優れていたのは敵発見においてであって、射撃の精度を上げるようなところまでには至っていなかったようだ。

昭和20年3月には空襲に来るB-29を500キロ遠方で探知し、距離と高度と進路を知ることで味方戦闘機の迎撃を誘導するシステムを開発したものの訓練を開始したところで終戦(敗戦)になってしまった。

というような状況で、日本軍には「電探」がなく精神力と視力で戦っていたのかと思っていたのは間違いだった。昭和11年から開発に着手していれば、もう少し日本側の犠牲を減らせたと同時に敵の損害を大きくすることができたはず。

バルチック艦隊との海戦で東郷平八郎のT字戦法が勝利につながったということになっているけれど、ロシア艦隊は大砲ごとに指揮官がいてまちまちに撃っていたのに対して連合艦隊では加藤寛治発案ですべての砲塔は同じ照準で撃っていたので着弾の修正が容易だったと書かれていた。

これに電探を連携させれば砲撃精度を上げることができたと思われ、もう少し早く着手していればとは思うものの、負ける時期が延びればそれだけ犠牲も大きかったし、原爆も3発目が落ちた可能性を考えれば、それでよかったという側面も否定はできない。

敵基地攻撃能力だとかで、アメリカのミサイルを言いなりに買わされるようだけれど、じっさいに戦闘が始まった時に、検討が好きな総理大臣がシビリアンコントロールで指揮権を握るのであれば、戦争が始まる前に負けが決まったようなものだ。

敵基地攻撃能力以前に不可欠なのは迎撃態勢で、今のウクライナが苦しんでいるのもミサイル攻撃をいかに防ぐかだ。これこそが専守防衛の本義と思う。

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