「小野毛人」の墓誌

飛鳥浄御原宮に天の下治す天皇の御朝で、太政官、兼刑部大卿、大錦上の位を任ぜられる。

小野毛人朝臣の墓。歳次丁丑年十二月上旬に営造し即ち葬る。

飛鳥浄御原宮で天下を治める天皇(天武天皇)の朝廷で、太政官、刑部大卿を兼職し、大錦上の位を任じられる。

小野朝臣毛人の墓。丁丑の年(677年)の十二月上旬に造営しすぐに葬られる。

小野毛人は小野妹子の子であるが、墓誌に書かれている以上のことは分かっていない。墓は平安時代山城国愛宕郡小野郷の一角にある。墓の近くに崇道神社が創建されている。社伝では貞観年間(859-877)のこととされている。

「崇道」といえば、桓武天皇の弟のことで、平安京の前に長岡京を建設していた。その工事の総監督が藤原種継(式家)であったが、暗殺される。この暗殺に東大寺の関係者がいたことから皇太子・早良親王にも嫌疑がかけられ、絶食して憤死した。

その後、桓武天皇・早良親王の生母(高野新笠)が死んだり、不吉なことが多発したため早良親王を崇道天皇と追称した。

その神社がなぜ小野郷にあるのかは、今のところ不明。その崇道神社の傍に慶長18年(1613)に墓が見つかり、金属板(国宝)が見つかる。その文字には小野毛人の墓であると記載されていた。

「大錦上」という位は「冠位二十六階」では第7位で、律令制では正四位上に相当する。ちなみに小野妹子は遣隋使から帰国してから「大徳」になっているが、これは律令制では正一位か従一位に相当する最上位の位階である。

毛人の活躍していた時代は「大化の改新(乙巳の変)」や「壬申の乱」があり、それらの政治的変動を潜り抜けて栄達している。