「所与」という言葉

Gifted」という映画があった。「生まれつき高い知性や特定の能力が突出した人のこと」のことだそうで、だからと言って特にうらやましいとも思わない。なぜなら庶民にとっては、普通が一番だし、凡庸が一番なのだから。

荘子は、「まっすぐな木から切られる」と言っており、村外れに生えている曲がりくねった木でも、日陰を作っていると言っている。つまり、すべての物には存在する役割があるということ。これも「所与」といえる。

350億円かけてリング状の日陰を作ろうとしている人たちもいるようで、たった半年のイベントのために、まっすぐな木を大量に伐採して作っている。その資材を能登半島に回せという考えもあり、かたや万博はバクチ場を作る手段であって目的じゃないとする考え方もある。

話変わって、組織論の本を読んでいたら「組織は、存在している時点で所与(given)である」と書かれていて、新たに組織に参加する人にとって組織文化は「所与」のものということになる。

「所与」で検索したら「仏教認識論における所与」というPDFが見つかったのでダウンロードしてみたけれど、わずか2ページであったが、言わんとする趣旨が全く分からなかった。

何回読んでも理解が進まないから、前提とする知識が欠如しているのか、知能が低いのか? その両方なのだろうと思う。面白そうな題材なのに理解できないことが残念である。

BARDは、哲学では「思考の働きに先立ち、意識に直接与えられている内容」だそうで、これならなんとなく分かる気もする。心理学では「感覚に与えられているもの」となり、認識論では、「心の中に表象されている現実」となり、これまた分かりそうにない。

gifted」といえば、「贈られたもの」ということで、誰が贈ったのかと言えば彼らの価値観からすれば「」ということになる。「given」だと「与えられたもの」ということだから、これはくれる人がいれば誰でもいい。

組織論で言うなら、新たに参加した人に対して「組織文化」が「所与」として機能しているとするなら、国家に対しての民族なども「所与」である。日本では宗教は全く自由であるけれど、「given」であると同時に「gifted」である国もある。

かつての日本でも「given」であると同時に「gifted」である象徴が形成されていて、そのことによって国民の意識が収れんしていたけれど、「巌」になることが結果として未曽有の不幸を招くこととなった。何事もバランスが不可欠であり、それを「調和」という。英語では「harmony」というらしい。

これは、「given」でも「gifted」でもなく、文化を共有する人すべてによって紡ぎ出されるものである。