「枕草子」が描いた世界《其の15》

993(正暦4)年、藤原伊周が定子に紙を上げる。その半分は、帝(一条天皇)に献上していた。定子がもらった紙があったので「枕草子」が書かれることとなる。

定子に原子という妹があり、原子は東宮の居貞新王(三条天皇の東宮時代)の妃になる。その原子が定子を尋ねるシーンが「枕草子」に書かれているが、その時すでに道隆は死の病(糖尿病)に罹患しており、中関白家の凋落が現実のものになりつつあった。

三条天皇を調べると皇后は藤原娍子(せいし)で、彼女の父は藤原済時。女御が藤原妍子(けんし)。父は道長であり、原子は、wikiには記載がない。

藤原原子は藤原定子の同母妹であったが、道隆が病死し、定子、御匣殿も同じ時期に亡くなり、伊周が失脚し、原子も死去する。

道長は一条天皇には藤原定子がいたのに彰子を入内させのと同様に三条天皇には藤原済時の娘である藤原娍子がいたにもかかわらず藤原妍子を入内させるが、三条天皇は藤原娍子を皇后とした。藤原妍子が産むのが女児の禎子内親王だったことから、道長と三条天皇は折り合いが悪くなる。

この禎子内親王が後朱雀天皇(藤原彰子の子)との間に後三条天皇を生むことになる。この後三条天皇は藤原茂子との間に白河天皇が生まれる。藤原茂子は、藤原能信が養子にした養女であった。

藤原能信は道長の子であったが、母は源明子であり、源倫子の子らとでは明らかな差があった。同じ道長の子でも倫子の産んだ頼通や教通はジャンジャン出世し、明子の子らは出世からは置いていかれたが、藤原能信の養女である茂子が白河天皇を生むことで藤原能信は天皇の外祖父になる。

と、三条天皇をめぐる道長の確執と藤原能信に触れてはみたが、伊周とはあまり関係がない。

伊周は女性を争って花山上皇の牛車に矢を掛けるという狼藉によって内大臣の職を解かれて大宰府に流され、後に京に帰還できるが、この不始末に関して「枕草紙」は一切触れていない。

淑景舎(しげいしゃ)などわたり給ひて、御物語のついでに、(淑景舎)「まろがもとに、いとをかしげなる笙(しょう)の笛こそあれ。故殿の得させ給へりし」とのたまふを、僧都(そうづ)の君、(隆円)「それは隆円(りゅうえん)に賜へ。おのが許(もと)に、めでたき琴はべり。それにかへさせ給へ」と申し給ふを、聞きも入れ給はで、異事(ことこと)をのたまふに、答へ(いらえ)させ奉らむと、数多(あまた)たび聞え給ふに、なほ物ものたまはねば、宮の御前の、「否、かへじ(変えない)、とおぼしたるものを」と、のたまはせたる御けしきの、いみじうをかしきことぞ限りなき。

ここでいう「淑景舎」が定子の妹の原子のこと。「故殿」とは藤原道隆のことで、道隆がくれた笙があると定子に言ったところ弟の僧都の君の隆円)が欲しいとねだると原子が聞こえないふりをするので定子が「否、かへじ」と答えるシーン。

伊周が大宰府から帰還が許されるのは定子の死後のことで、伊周の唯一の望みは定子が一条天皇との間に儲けた敦康親王の即位だったが、彰子の産んだ第二皇子の敦成親王が後一条天皇になる。

1010年に伊周は糖尿病で失意の中、死去する。享年37歳。

誰も皆 消え残るべき 身ならねど ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき
雪の降る中葬送した定子のことが悲しい

という歌を残している。

余談であるが、定子の妹の原子は「突然血を吐いてそのまま頓死した」とされており、藤原娍子、あるいはその女房が何かを仕掛けたのではないかとの噂が立ったが、済時筋の陰謀であるよりは、道長の娘である藤原妍子筋のほうが、やりそうなこと。

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