「枕草子」が描いた世界《其の19》

995年に関白・藤原道隆は死去する。16歳の一条天皇は「藤原道兼」を次の関白に選んだ。枕草子を読む限り、道隆の子である伊周は、定子の兄ということもあって、一条天皇の兄のように接してきたし、漢文の指導もしてきた。

しかし、いまや道隆の死後、伊周と定子には後ろ盾がいなかった。

しかし、そうして選ばれた道兼もおよそ10日後に、疫病にかかりあっけなく死んでしまう。

994年から日本全土で猛威を振るっていた疫病は、平安京の人口を半分にまで減らしたと言われている。源重信(宇多天皇の孫)も、藤原朝光、藤原済時、異母兄の藤原道頼も永病によって死去した。

道兼が死んだことで伊周に関白がくるかと思いきや、藤原道長へと時代が流れていく。

この裏で影響力を発揮していたのが一条天皇の母である藤原詮子であった。詮子は伊周・定子が一条天皇とあまりに近しいことを好んでいなかったことと、兄の道隆を好まず、弟の道長を好んでいたことから「大鏡」では一条天皇に泣いて頼んだことになっているが、事実かは不明。

「大鏡」はそもそも藤原冬嗣から道長までの栄華をたたえる書き物であるため、定子に対しては辛らつな書きぶりをしていないが、伊周に対しては短慮で軽薄な若者として描いている。

故殿の御服の頃、六月のつごもりの日、大祓といふことにて、宮の出でさせ給ふべきを、職の御曹司を方あしとて、官の司の朝所にわたらせ給へり。その夜さり、暑くわりなき闇にて、なにともおぼえず、せばくおぼつかなくてあかしつ。

つとめて、見れば、屋のさまいとひらにみじかく、瓦ぶきにて、唐めき、さまことなり。例のやうに格子などもなく、めぐりて御簾ばかりをぞかけたる、なかなかめづらしくてをかしければ、女房、庭に下りなどしてあそぶ。

161段

大祓があるということで、喪中の中宮さまはいったん宮中を出て400メートル南に行った「朝所」に移る。建物は小さかったが、格子などもなく御簾だけがかけられていたのが、珍しく女房は庭におりて遊んだ。

時司などは、ただかたはらにて、鼓の音も例のには似ずぞ聞こゆるを、ゆかしがりて、わかき人々二十人ばかり、そなたにいきて、階よりたかき屋にのぼりたるを、これより見あぐれば、あるかぎり薄鈍の裳、唐衣、おなじ色の単襲、くれなゐの袴どもを着てのぼりたるは、いと天人などこそえいふまじけれど、空より降りたるにやとぞ見ゆる。
おなじわかきなれど、おしあげたる人は、えまじらで、うらやましげに見あげたるも、いとをかし。

時司(水時計)はすぐ隣に合って、時刻を知らせる鼓の音が宮中とは異なって聞こえるので、面白がって若い女房達が20人ほどで、時司の階段を登っていく姿は、転任とまでは言えないけれど、空から降りてきたように見える。

同じ若い女房でも下から見上げている女房はうらやまし気に見上げている姿も面白い。

左衛門の陣までいきて、倒れさわぎたるもあめりしを、「かくはせぬことなり。上達部のつき給ふ椅子などに女房どものぼり、上官などのゐる床子どもを、みなうち倒し、そこなひたり」などくすしがる者どもあれど、聞きも入れず。

左衛門のところまで行ってひっくり返るものがいたりして「こんなことはするべきことではない。上達部の座る椅子に登ったり、ベンチのような椅子を倒して壊してしまう」などと真面目ぶったことを言うものもいたが、誰も聞き入れなかった。

このことは、「小右記」にも書かれていた。「小右記」は藤原実資が書いた日記。そこには、はしゃぐ女房達のことと同時に、源明理(あきまさ)のことも書かれている。

源明理は翌年伊周らが起こす事件で、伊周の義兄弟であったことにより連座させられた。妹が伊周に嫁いでいる。