ヤジと民主主義と裸の王様

裸の王様はアンデルセンが1837(天保8)年に書いた。要点は、詐欺師が王様をだましてありもしない布で作ったと称する服を王様に着せる。詐欺師は「この布は馬鹿者には見えない」というので、王様も側近も、布なんてないことを気が付いているのにみんなで「素晴らしい衣装です」という。

しかし、子供は正直だから「王様は裸だ」と指摘するという話。

この話には原作があって1335(建武2)年の王族であるマヌエルの「ルカノール伯爵」という寓話集に収録されている。そこでは、「姦通で生まれた子には見えない布」とされており、見えないと姦通の子とされるので、みんなして見えるふりをするという話。

しかし、いかなる時代であれ、いかなる国であれ、貴族や王族は「姦通」というか「強姦」というか、そんなことは日常のことであり、ただ、女性の側が相手が高位であるほどにチャンスとばかりに積極的に受け入れていたから犯罪にはなっていなかっただけのこと。

独裁者は、周りの人間が勝手に忖度するようになるので、どんなに愚かなことをしてもみんなが「素晴らしい」と持ち上げるようになる。

「裸の王様」になるのは、独裁者の宿命であるわけで、それは取り巻きが持ち上げることもあるけれど、独裁者を志向する人間は、そもそも「よいしょ」が好きだから独裁者になるのだし、それがいかにまっとうなことでも自分に都合が悪いことであれば激高する。

独裁者の激高に即応する組織が生まれ、強固になっていくことで恐怖政治がはじまる。ここらあたりから、独裁者の持つ権力が独り歩きをしだす。

決してリーダーの資質があることを前提としてリーダーになれるわけではない。卑近な例では「世襲」なんてのがあって、親や祖父が優秀だったからというだけで子や孫が独裁者になるようなケースは珍しくもないのは、本人の資質というより、独裁者を作り上げることで利益を得られる賢い人たちによって偶像化されることがほとんどである。

2019年7月15日、札幌で演説する安倍晋三首相(当時)にヤジを飛ばした男性が拘束された事件が映画になるそうだ。道警がお先棒を担いで聴衆の中からヤジを飛ばしたりプラカードを持っていた9人を排除した。そのうち2人が一審で「表現の自由」の侵害を認められ、道警には88万円の賠償が命じられたものの2審では女性の訴えは認めたものの男性の訴えは棄却して最高裁で争うことになった。

北海道の官憲は、まだ戦前の法律から脱却ができていないらしい。内地で100円札が見られなくなってもしばらくは北海道では普通に使われていた。

そういえば「王さま」のご夫人の名前を消せと決裁文書の改ざんを命じた事件もあったが、それとて、自死した人はいたが、有罪になった人は皆無だったうえに、いまだに情報請求をしても黒塗りの文書しか出してこないらしい。それとて「裸の王様」を持ち上げるために自称・賢い人たちがこぞってストーリーを作り上げ、司法も独裁者に忖度すればこその結果だった。

権力を持てば、誰しも「裸の王様」になるのは、裸の王様にすることで安座できる「お茶坊主」という持ち上げ係の飯のタネになっているという生態系も出来上がっている。

子供のころから成績だけは優秀で東京大学を出て官僚になり、自分より頭脳劣悪な政治家に服従することに喜びはない。(めんじゅうふくひ)面従腹誹(めんじゅうふくひ)し侮蔑しており、頭脳も品性も劣悪な政治家に面従腹誹している官僚こそ、人間として最も卑しい人種であることに当事者は気が付いていない。

そもそも、権力に清廉な人は権力志向を持ち合わせてはいないのが世の常であるから、政界・財界に向かない。よって、政界・財界は自ずから腐臭を放つようになる。文書交通費という表金

ろくでもない恥知らずに限って権力を志向する。文字にない時代のリーダーは、資質によってリーダーとして集団を統率した。