大鏡:其17

鎌足の名が歴史に残るのは645年の「大化の改新」である。厳密にいうと「乙巳(いっし、おっし)の変」というクーデターで大王皇極の眼前で蘇我入鹿を暗殺、蘇我蝦夷が自害することで権力の構造が変わる。

ストーリーとしては蘇我入鹿が皇位を簒奪しようとしたので誅殺したことになっている。歴史は、その時点で権力を握った者たちのものとして描かれ伝えられるのは宿命。

この時点での鎌足(鎌子)の姓は「中臣」。実際に『大化の改新』での功績は記録として残ってはいないが、654年に紫冠(律令としては三位)になっているから、裏方として中大兄皇子に貢献したのであろう。

日本史上初めてのこととして皇極天皇35が譲位して軽王が大王孝徳36に践祚した。軽王は大王皇極の同母弟。654年に死去すると大王皇極が重祚して大王斉明37となる。

大王皇極かつ斉明は大王舒明34の皇后で後の天智38・天武40を生んでいる。大王舒明は641年に死んでいる。大王舒明の先代は大王推古で、推古が死んだときに継嗣を決めていなかった。それで蘇我蝦夷が舒明を大王に立てたことになっている。

近年の研究では、大王欽明29の嫡男である敏達30の直系である舒明と、庶流である用明31の系列とで豪族間の争いがあったらしいが、蘇我蝦夷が舒明を立てたとする説もある。用明にすると母親が蘇我系であったため遠慮したという考え方である。

668年に中大兄皇子が大王天智となる。669年に中臣鎌足が病に倒れ、天智が見舞っているが、鎌足に死期が迫ると穢れるので弟の大海人皇子を遣わし、大職冠とし姓を「藤原」にした。

補足

昭和9年、京都大学が地震観測所建設中に発見された遺跡に墓室が見つかり、棺に中に60歳前後の男性の遺骨が発見される。

金の糸がたくさん散らばっており鎌足であろうと推定されたが、地震研究所の扱いが悪いこと、調査もさせてもらえない考古学研究所や大阪府、文部省などとの会議の結果、万が一皇族であったら冒涜になるということで埋め戻された。

昭和57年、埋め戻す前に取ったX線写真が発見され分析の結果、腰椎を骨折する大けがをしており、寝たきりで死亡したことや、金糸が冠の刺繍糸であることが判明し、被葬者は最高位の人物であるとされた。おそらくは藤原鎌足だろうとされている。