小野篁が生きた時代

天皇と藤原北家を時代順に並べてみると少し流れが見やすくなる。

桓武天皇は、母が渡来人であったため皇族ではなく官僚として出世する予定であった。ところが、いろいろな出来事が重なり、かつ、藤原式家(藤原百川)の支援を得て44歳で天皇となる。百川の兄の良継の娘である藤原乙牟漏を皇后にして後の平城天皇・嵯峨天皇の母となる。百川の娘の藤原旅子は淳和天皇の生母となる。

長岡京への遷都を決め造営中に式家・藤原種継が暗殺される。その責任を桓武天皇の実弟である早良親王にあるとして憤死させる。長男の平城天皇は種継の娘の藤原薬子を愛妾にし、薬子の兄の仲成と共に専横を極めた。

平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位したが、薬子・仲成らが平城天皇の復位をそそのかし平城京への遷都を図るも嵯峨天皇は仲成等を捕まえ、薬子は服毒自殺をする。

この件で藤原式家が失墜し、嵯峨天皇の時代には藤原南家が台頭してくる。そのきっかけとなるのが藤原三守である。この三守についても興味深いことがたくさん書かれているが、権力に潔癖な人で、嵯峨天皇・淳和天皇に誠実に仕え、信頼も厚かった。同時期に公卿には北家・藤原冬嗣もいた。

小野篁(たかむら)は、大学寮の学生であったにもかかわらず、この藤原三守に直接手紙を手渡している。この時代、右大臣のような高い身分の人材に手紙を渡すとして、手続きを踏まなければならないところであるが、篁はいきなり右大臣に漢文の手紙を出している。

学生小野篁の誠におそれて慎みて申す。
賢第十二娘は、四徳に並ぶる無く、六行に欠けず、所謂、君子の好仇、良人の高媛なる者なり。
請い願わくは、府の君の恩許を蒙りて同穴偕老の儀を共にせん。

藤原三守が右大臣とされているが年月を合わせると中納言だったようであるが、それでも学生がダイレクトに中納言に手紙を出し、その漢文が優れているからということで婿になることに成功する。

実際には漢文だけのことではないとは思うものの、婿入りに成功することは、大きな起点となる。

篁が家庭教師になる、後の文徳天皇あたりから藤原北家が貴族の世界を蹂躙していくこととなる。  

篁に関する記録を読む限り、藤原北家で名前が出てくるのは藤原良相と高藤。これに関する話も面白いので、いずれ記載する予定。

ちなみに、紫式部は藤原高藤の末裔。