巻第24 小野篁被流隠岐国時読和歌語 第四十五

今昔、小野篁と云ふ人有けり。

事有て、隠岐国に流されける時、「船に乗て出立つ」とて、京に知たる人の許に、此く読て遣ける。

  わたのはら やそしまかけて こぎ出ぬと ひとにはつげよ あまのつりふね

と。

明石と云ふ所に行て、其の夜宿て、九月許りの事也ければ、明髴(あけぼの)に寝られで、詠(なが)め居たるに、船の行くが、島隠れ為るを見て、「哀れ」と思て、此なむ読ける。

  ほのぼのと あかしの浦の あさぎりに 島がくれ行く 舟をしぞおもふ

と云てぞ泣ける。

此れは、篁が返て語けるを聞て語り伝へたるとや。

「今昔物語」でのエピソード。

834年、仁明天皇が企画した遣唐使で小野篁は、副使を任命された。それは30年ぶりの企画で、桓武天皇の時に空海や最長が唐に渡って研鑽してきている。承和3年、4年に渡海を試みるも共に失敗している。838年の第3回目のチャレンジでは、遣唐正使・藤原常嗣と乗る船で対立があり、遣唐副使にもかかわらず乗船を拒否し、朝廷を揶揄する漢詩を書き嵯峨上皇の逆鱗に触れることで隠岐に流されることになる。

その時に詠んだ歌が古今和歌集にも採られている。「数多の島々を漕ぎぬけて隠岐へ向かったと都に残した人々に伝えておくれ、釣りをしていている漁師たち」。

この歌を小野篁の歌としているのは「今昔物語」だけで、他ではヨミ人知らず、あるいは柿本人麻呂とする説もある。

この仁明天皇による遣唐使が最後になり、宇多朝にも企画されたが菅原道真がやめることを上申し、取りやめとなった。一つにはお金がかかりすぎること。船4艘に約600人が乗船し、唐の皇帝への土産も必要になる。

さらには、無事に往復できる保証もなく、多くの人が海に飲まれている。そして、道真が言うように、そのころに唐からは学ぶものが少なくなっていた。それほどに、日本の文化が開花していたということ。

不思議なことに、838年に隠岐に流され、貴族から庶民に落とされたにもかかわらず840年に帰京し、841年には官位を復している。この背景の事情を説明する資料は見当たらない。篁の義父は右大臣の藤原三守の力添えがあったのかもしれない。

その後、道康親王(文徳天皇)の東宮学士になる。850年に道康親王は文徳天皇になると、ここから藤原良房が権力を蹂躙しだし、藤原摂関政治の基礎を作ることとなる。

「大鏡」も、天皇は文徳天皇から始まり一条天皇で、ほぼ終わる。

小野篁も、朝廷に跋扈した能吏の一人にすぎないのだろうけれど、彼には、閻魔大王とのエピソードがいくつかあって、それはそれで面白い。

京都市北区紫野西御所田町の島津製作所紫野工場の一角に、紫式部のものと隣接した墓所がある。