年功と才能

真言宗の東寺・主たる庇護者は後宇多上皇であった。後醍醐天皇の父。

この東寺には古文書が4万通もある。

その古文書を良く調べてみて分かったことがある。

仏教界の席次は、「臈次(ろうじ)」といって受戒してからの年次が席次を厳密に決めている完全なる年功序列の社会であるということ。才能のことは「器要」というが、器要によって席次の序列が変わることで、もめごとが発生している記録が残っていた。

朝廷を貫く理念は「世襲」であって、どれだけ富があろうが学識があろうが中央政府に出仕することは、ほぼ無い。例外は菅原道真と小野篁くらい。

世襲」とは、「世襲である限り自己が否定されることは無い」「切磋琢磨する必要がない」「イノヴェーションが起こらない」「新しいことよりも今のままを重んじる」「理想や模範は、常に過去にある」「前例がなにより重要」な価値観を貫いている。

東寺の古文書から見えてきたのは、僧侶の階層である。
第一グループ:高貴な家の出身
第二グループ:高位グループに仕える貴族の子弟
第三グループ:学衆クラス(氏素性関係なく勉強して僧侶になっている)

第一、第二グループは皆僧正であり、然るべき貴族か皇族の子弟で占められていた。第三グループもほとんどが貴族の出身であった。

時に、おそらく「有能」ということで、世襲の掟を破って出世することがあった。これを「超越(ちょうおつ)」といい、超越された側は恥辱とした。しかし、仕事をしようとする天皇にとっては、有能な人材が不可欠であり「抜擢」をせざるを得なかったが、必ず守旧派から反発が生じることとなった。

つまり、朝廷や仏法の世界においては出自が必須条件であり才能の有無が介在する余地はなかった。それが破られるのは「中世」においてである。しかし、それでもいかに出世しても第三グループどまりであった。

法然であってもせいぜい第二グループあたりだったかもしれないが、彼は下野して浄土宗を開いた。こうして鎌倉仏教は庶民へと流布されていくこととなる。

このことが、仏教におけるイノベーションとなった。武士における世襲は明治維新においてイノベーションが起きたが、「薩長閥」という新たな世襲が生まれて現在にまでつながっている。

令和の時代の世襲政治も、いずれイノベーションが起きる可能性はゼロではないが、それとて権力機構の代替わりでしかない。選ぶべき野党が無いという決まり文句で納得している限り、自民党政治は限りなく暗部を深めていき、世襲議員がはびこることとなる。国民利益を最大化できる政治にするためには吏僚含めて、「誠実な小人」に入れ替えることから始めれば望みはある。

かつて民主党が政権を取った時の掛け声が「脱官僚」であったが、予算も作れず、法律も作れず、官僚のペーパーなしには国会で答弁ができないレベルの政治家である限りは「脱官僚」は無理。