悪意を抱く背景

日本人は、アメリカ人比べて「悪意」に満ちているらしいという記事があり、このブログでも過去に取り上げている。それは簡単な実験で実証されている。

二人にそれぞれ10ドル渡す。ルールは簡単で、「せいの!」で二人が出した合計金額の1.5倍を二人で分ける。二人ともが10ドルを出せば30ドルになり、1人の取り分が15ドルになる。つまり、5ドル増える。

しかし、相手が1ドルも出さないとすると自分が出した10ドルが15ドルになり二人で分けるから自分は7.5ドルになるが、相手は持ち金の10ドルに7.5ドルがもらえるから17.5ドルにできる。

相手に損害を与えようとしたのはアメリカ人の12%に対して日本人の63%だった。つまり、アメリカ人の5倍、日本人は意地悪だということ。日本人は、自己の利益を犠牲にしても相手の不幸を最大化させたい民族である。

この実験では、結果として自己の利益を最大化できている。そこまで考えていたのなら、アメリカ人より5倍計算が早いことになるが、その辺のことはわからない。

これは以前にも書いてあるので復習になるが、このような傾向は生得的なものではなく、はなはだ文化的なものであるといえる。

さて、東京都知事選で名を馳せた石丸伸二さんを、都知事選直後のころに「論理的にも、人格的にも問題がある」というようなことを公表した政治家がいた。

政策に対する理論性を否定するのは「個人の考え」であるが、相手の人格を否定するのは「人格攻撃」である。人格攻撃の何が悪いのかをChatGPTに聞いたら、

「議論の本質を歪める」「対立や不和を生む原因となる」「尊重と信頼が欠如する」「相手に対する侮辱である」「敵対的な状況を引き起こす」などを挙げてきた。

同時に、民法で「名誉毀損や侮辱、プライバシー侵害、不法行為などの形で、損害賠償請求が行われる可能性」もあるとのこと。

では、どうして人気商売である政治家が、直接利害のない相手の人格を否定しようとするのだろうか? 自分の利益を最大化できるという悪意からなのか? しかし、発言力・影響力があったとして相手の利益を毀損することはできるかもしれないが、自己の利益を最大化できるようには思えない。

また、相手と利害が一致していないから相手のダメージが自己の利得になるわけでもない。

ということは、「羨望」が真っ先に考えられるが、それよりも、最も近い感情の動きとしては根拠のない自己の優位性(家柄、学歴、資産など)から目障りな人間を「邪魔」と感じる「傲慢」から、屁をひるがごとくに他人の人格を否定してきたのかもしれない。

常に人から「敬われてきた」自分は、他人を敬わなければならないという価値観が欠如している可能性は高く、冒頭の相手の損失を最大化させようという意図も魂胆もなく、単に目障りだからどけたいという意欲と、自分の優位性からかんがみて許容できなかったあたりのような気がします。

身分制が制度化されている社会においては、自分より下層の人間に対して「否定」することは当然だと思うような意識形成が、身分制が制度化されていない現下の日本社会においても、社会的優位に立つ人間にとっては「身分制的意識」は健在だということのようです。

年端もいかない女性議員が父親ほどの運転手の頭得緒蹴りながら「このハゲ~」と毒づいたなんてこともありましたが、それなども相手に対する身分制的意識による人格否定でしかありません。

貧富が2極化するほどに、身分制が定着してくるから、そうした傾向が強まっていく懸念があるようです。