藤原定子への鎮魂の書「枕草子」

山本淳子さんという方が書いた「枕草子のたくらみ」という本を読みました。山本さんは京都学園大学の教授だそうです。

枕草子」というと、高校時代の地獄の「古文」で、「春はあけぼの...」などと習いましたが、書店で、この「枕草子のたくらみ」を手に取って、しかも買うことになろうとは夢にも思っていませんでした。

読めば読むほどに面白い話が満載でした。何が面白かったかというといくつかありますが、突き詰めれば「藤原定子と清少納言の人間関係」に尽きます。皇后である定子が、一介の世話係の一人であった清少納言をかくも愛でたのかが、よ~くわかります。

平安時代に詳しくない人のために少し余計な補足をすると、藤原定子は藤原道隆の娘です。藤原道隆は、4家ある藤原の中で当時一番主流になっていた「北家」の惣領(氏の長者)でした。が、今でいう糖尿病で斃れる。そうなると本来なら道隆の長男である藤原伊周が継ぐべきところ、道隆兄弟の末弟である藤原道長が惣領となる。

藤原定子の亭主は一条天皇で、この母が藤原詮子といい、道隆の妹で道長の姉だったのですが、この一条天皇の母・詮子が泣いて頼んだのが藤原伊周ではなく、藤原道長が上に立つことでした。

道長は自分の娘である藤原彰子を一条天皇に輿入れさせます。

追い打ちをかけるように藤原伊周がバカなことをしでかし検非違使に逮捕されるということが起き、そのことがあって定子は剃髪(出家)してしまうのですが、一条天皇のたっての願いもあって還俗し、皇子(敦康親王)が誕生するのですが、結局は彰子が生んだ皇子が後の後一条天皇や後朱雀天皇になります。

西暦1000年の12月に次女を生みますが、その日に定子が亡くなります。

一条天皇の愛は定子に注いでいるのですが、当時は、天皇ですら権力の後ろ盾がなければ天皇として機能することもできないという現実があって一条天皇としてもつらいポジションに置かれます。

零落した実家を持ったことが定子の不幸の始まりで、道長によるあらゆる嫌がらせの中でも機知と文化を忘れることなく、その思いに存分に応えた清少納言をこよなく信頼したことにより「枕草子」が後世に伝わることになりました。

どれだけ道長一派に嫌がらせを受けても、それに対する嫌みの一つも書くことをしなかったことも「たくらみ」の一つであり、道長も「枕草子」を抹殺しなかったのは、道長への恨みつらみが一切書かれていないかったからなのだと山本さんは推理しますが事実は分かりません。

清少納言の最大の目的は「定子への鎮魂の書」として後世に伝えることであったというのが著者の主張ですが、後世に伝えることなどを意図したのではなく、自らの想い出の書だったのではなかったかと感じています。

そして「枕草子」の最大の価値は、文学の価値と香りに満ち満ちたドキュメンタリー(事実の記録)であるということに尽きます。途上人物はすべて実在しており、のちに三蹟としてあがめられる藤原行成(「大鏡」ではあまり登場しない)も、青年の貴族として清少納言に近親感を覚えた一人として登場してきます。

枕草子」に登場するエピソードがいくつかありますので、連載として逐次掲載していきます。