柄谷行人の交換様式「D」とは

交換様式「D」は向こうからやってくる とのこと。言わんとするところがよくわからない。

文春新書の「柄谷行人『力と交換様式』を読む」を読む限り、話はさっぱり見えない。しかし、アマゾンの書評では「4.5」とすこぶる高いので、ひとえに自分の理解力が不足していることは自明だ。

書中、マルクス、エンゲルス、ウェーバー、ヘーゲルなどという人名が多出しているから、余計に分からない。マルクス、エンゲルス、ウェーバー、ヘーゲルはどうでもいいから「交換」と「D」について、誰にもわかるように本を書けなかったのかと思う。

交換様式「A」とは、「互酬」のこと。ありていには「贈与と返礼」。物々交換のようなもの。
交換様式「B」とは、「服従と保護」。「略取と再分配」。要するに国家のこと。
交換様式「C」とは、「商品交換」。貨幣と商品の交換。いわば資本主義のこと。
交換様式「D」とは、「Aの高次元での回復」とされているが、これでは何が言いたいのかさっぱりわからない。

さらには、「D」は交換様式ではなく、交換を否定するような衝迫 と説明されている。「衝迫」とは「心の中にわきおこる強い欲求」のことだそうで、衝迫と交換に脈絡もわからない。「D」は観念的・宗教的な力として現れるが、経済的交換に深くかかわるから「D」は「A・B・C」に対抗し得るのだそうだ。

人間の願望や意志によって作られた想像物ではなく、人間を強いる力を持つ とのこと。

社会運動はどうかというと柄谷は「A」だという。エンゲルスの言うユートピアン社会主義も「A」になる。

人新世の『資本論』」を書いた斎藤幸平は、交換様式「C」が広がりすぎた現代資本主義社会において「A」に基づいた領域を拡大していくことによって「D」への跳躍が可能になると指摘している。資本主義を超出していく背景に「脱成長」があると考えている。

これに対して柄谷は「世界戦争や経済破綻」が起きるのではないかと考えている。

斎藤は、「向こうからやってくる」ものが「D」だとすると、それを「黒船」と呼ぶ。かつては、黒船が来たから社会が変革したのではなく、変革しようとする「内在」していた思想があり、それが黒船を契機に転換が起きたという。

柄谷の最後のほうの発言で、カントは人間でも神でもない何かを「自然」とした。ヘーゲルの言う「精神」でもない。交換様式「D」とは、とりあえずはカントの言う「統制的理念」のようなものだということになった。

ということで、さっぱりわからないことが分かった。

余談

服従すれば保護されるのが国家で、これを交換様式「B」という。これは民主主義であろうが全体主義であろうが同じことで、交換によってバランスされている。

戦国時代の大名と足軽も、単なる服従だけではなかった。「保護」「再分配」がなければ、恐怖だけで統治は持続しない。と、考えてみると暴力団だって同じ構造になっている。

つまり、「組織」の原理は、「服従と保護」。

過剰になりつつある資本主義が破綻する次にやってくるものが「D」。それを黒船到来とするマインドが次代を担うということなのかも。硬直化し、既得権益でがんじがらめになった現代社会が、健全を取り戻すためには「改革」とか「改善」などでは微細な変更しかできず、政権交代などしてもおそらくは徒労になる。

それはかつての「民主党」が実践して示してくれた。

日本が今のような社会になったのは、それが良かったか悪かったかは別として「敗戦」という「破滅」があったからにすぎない。つまり「D」とは、既存の力が「破壊」され、社会が「破滅」するところから立ち上がるものこそが、大いなる交換であり「D」そのものになるように思うが、柄谷さんに言わせれば「笑止」で終わる。

明治維新も単なる権力の交代でしかなかった。「破壊」や「交代」や「破滅」だけでは、変化は表層だけでしかない。全体主義や民主主義の先へ行く「互酬」の交換様式こそが、高齢日本を救うの鴨。一説には「高齢者の腹切り」も選択の一つのようだ。