浅草神社と三社の由来

2023年5月19、20、21日は三社祭だそうで、大層な人の出になっています。今朝(21日)は、各町会の祭り装束の人たちで町の小路はあふれかえっています。

各町にはそれぞれ御神輿があり、笛太鼓を奏でる屋台もあって、にぎやかになります。

浅草神社の由緒を調べてみました。ことは、推古天皇の628年に二人の漁師が浅草裏(当時の隅田川の浅草あたりは海だった)で漁をしたものの収穫はなく「人形の尊像」だけしかかからなかった。そこで駒形の木の切り株に安置した。

それを見た地元の文化人が「これは観音様だ」ということになり、文化人は剃髪して僧侶となり自宅を寺にした。これが浅草寺の起源。とはいえ、宗派は昭和24年まで天台宗であったという背景は、645年に勝海上人が参詣して堂塔の再建に尽力して浅草寺として開山した。

857年には比叡山延暦寺の慈覚太師が参篭して宗旨を天台宗にしたというから、それまでは天台宗ではなかったわけですが、何宗かはいまのところ不明。

後の世になって、彼ら3人の子孫の夢に観音様が現れて「親達を鎮守し、名付けて三社権現と称し祀れ」とのご宣託があったので、三社権現が創建された。この創建の時期は不明であるが、権現思想が流行り出した平安末期か鎌倉初期と考えられている。

「権現」の「権」は「代理の」という意味で、「現」は「現れた」ということ。つまり、本地垂迹思想によって仏や菩薩が仮の姿で現れたということらしい。3人は実在した人間であるから、神様にはならないが、菩薩の依頼には逆らえないから3人を「権現」として祀ったのかもしれない。

明治政府より発せられた神仏分離令により、明治元年に社名を「三社明神社」と改めて明治6年に浅草神社となった。

時代にもよるけれど「神仏習合」の時代もあれば「神仏分離」「廃仏毀釈」の時代もあったけれど、現在はお寺と神社が併存していて宗教ビジネスとしては成功を収めている。

「浅草」という地名の初出は、吾妻鏡(1181)のころだというので、それ以前の地名には諸説があるけれどいずれも定説にはなっていない。吾妻鏡によれば「鎌倉の若宮を造営するために武蔵の国の浅草から大工を呼んだ」というような記述。

江戸期の浅草寺は檀家を持たない「一切衆生」であった。そのうちに遊郭が吉原に移り、芝居が猿若町に移り、見世物、大道芸人が集まり、宗教から遊郭大衆芸能までをカバーする信仰と娯楽の町として今日まで至っている。

江戸時代は御神輿を駒形堂あたりで船に乗せて浅草見附(浅草橋)で陸上して蔵前通りをから三社へ戻るというようなものであったのを明治からは山車行列になり昭和になると御神輿ブームが全国的に広がることで現在の形になった。

御神輿は300年間かつがれてきた御神輿は戦災で焼けてしまい、今日(5月21日)かつがれる「一之宮」「二之宮」は昭和25年、「三之宮」は昭和27年に作り替えたそうです。神輿は焼けても「宮」の権現様は焼けなかったようで今に続いています。