経路依存症(Path Dependence)という言葉

経路依存症(Path Dependence)とは、制度や仕組みが過去の経緯や歴史に縛れる現象のことです。もともとは経済学の世界で用いられるようになった概念で、市場に新しい技術が導入された場合に、必ずしも性能の優れたものが広く受け入れられるわけではないことを説明するもの

俗に「慣性」あるいは「惰性」などともいうけれど、言葉と意味に齟齬がある気もする。政治ではろくでもない政党でも、それが与党だとすると、いいことを実現しそうな野党が登場してきても、それを選べないようなもの。与党を変えることは、既得権益をこわすことに大いなる意味があるにも関わらず現状に依存する粘着性がある。

クルーグマンは、多くの産業製品は、歴史的に見てもその土地に有利な地理条件があったわけではないことを理論として説明しているそうですが、夕張メロンなども昼夜間の寒暖差が大きいという北海道の気候特性ゆえにメロンの栽培に適しているのだそうですが、それならなにも夕張でなくてもよさそうなこと。

日本では、この30年間、経済が全く成長しなかったわけですが、その原因としていろいろ言われていますが、経路依存症によって構造改革ができなかったことが大きな要因になっています。

なぜ、構造改革ができなかったかというと、網の目のように張り巡らした「政官民の利権」が、改革を阻害していることは容易に分かることです。

だのに、選挙をしても有権者の意識に「経路依存」があって、どうしようもない議員を選び、どうしようもない議会が地方自治と慣れあって適当なことをやっているわけで、これはなにも安芸高田市に限ったことではなく、全国津々浦々で起きていることと思います。

というか、国政も同じようなもので、「政治家」という職業が既得権益化しており、政治家としてのビジョンや思想があるわけではないことは、世襲が多いことでもおいしい仕事であることがわかります。

与党が、野党がというレベルではなく、日本全国津々浦々、制度が疲労しており、にもかかわらず有権者は変化を嫌って「経路依存」し続けて30年経過してしまったのだと思います。

これは、多くの企業も似たようなものでいまでこそ、年寄りはパソコンを使うようになりましたが、ちょっと前までは「書院」とか「文豪」といった専用ワープロぐらいしか使えなかったようなマインドの幹部が、同じようなマインドで組織で年功だけで幹部なっているのでしょうから、すべては同じようなものです。

日本政治の経路依存から脱却するためには、安芸高田の市長のように論理的・明快なビジョンをもつ政治家に入れ替えていくことから始めなければ沈んでいく一方なのでしょう。変わるべきは有権者の経路依存する意識からですが、マスコミが「経路依存」側についている以上、ロシア人がプーチンを支持するのと基本は変わりがないように思います。

民主主義国家の優秀さとは、まず、報道と教育と司法が、権力から完全に離脱している「自由」がない限り、経路依存症から脱却することは難しいといえます。