道長死す

永井路子の「望しは何ぞ」でついに道長が死んでしまった。

藤原道長が死んだのは1028年1月3日と記されている。生まれたのが966年だそうだから享年62歳。藤原貴族の栄華の頂点に立つ男であった。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

満月が、どこも欠けていないように我が人生にも、いささかも欠けているところがないと歌にしているし、事実、ここまで栄達した人間は天皇を含めて日本史上に現れたことはない。

道長の第一夫人は源倫子(鷹司殿)。第二夫人が明子(高松殿)。

倫子(鷹司殿)の子供は、
 彰子(一条天皇后、後一条天皇・後朱雀天皇の生母)
 頼通(摂政太政大臣)
 妍子(三条天皇后、禎子内親王の生母)。禎子内親王は後朱雀天皇の后となり後三条天皇の生母となる。
 教通(摂政太政大臣)
 威子(後一条天皇后)
 嬉子(後朱雀天皇后)

対する、明子(高松殿)の子供は、
 頼宗(右大臣)
 顕信(出家)
 能信(権大納言、死後贈太政大臣)。養女茂子が後三条天皇の后となり白河天皇の生母となる。
 寛子(敦明親王の妃)
 尊子(「たゞ人」(非皇族・非公卿)と婚姻)
 長家(権大納言)。のちに倫子の養子になる。

藤原氏の新書などを読んでいて気になる人物が何人か登場するが、一番気になったのが道長の息子である「能信」。二番が「源俊賢」。三番が「藤原行成」。

2番、3番はいずれ触れるとして、ここでは「能信」について少し。ちなみに、冒頭の「望しは何ぞ」は、この能信が主人公。

995年生まれで1065年に死去している。享年70歳とすると長生きであった。

能信」がどういう人であったかは推測の域を脱しないし、小説はあくまでも作家の創造のことであるので、それぞれになるほどと思うのであるが、それ以上でも以下でもない。

事実としては、若いときは単なる乱暴者。それもあくどいこともしているし鷹司系の子らに対する高松系としての鬱憤晴らしでもあったようだ。

倫子の生んだ妍子の娘の禎子内親王(三条天皇の皇女)の中宮大夫になり、禎子内親王所生の尊仁親王(のち後三条天皇)の後見人となる。能信は、尊仁親王を親仁親王(のち後冷泉天皇)の皇太弟にするものの、後冷泉天皇には頼通、教通(二人は鷹司系)がそれぞれ娘、養女を后にしていたため、尊仁親王に娘を入内させる公卿がいなかった。そこで、能信の妻の兄の娘(茂子)を養女にして尊仁親王の妃にする。

ところが、歴史がスポットを当てたのは尊仁親王と茂子であり、尊仁親王は即位して後三条天皇となり、茂子の間に白河天皇が誕生することで、藤原摂関家が院政にとって代わられることになる。茂子は能信の養女であったため、能信の死後に太政大臣を贈られている。

道長は、晩年に京都御所のすぐ東隣に法成寺(無量寿院)を建立し、この世に極楽浄土を作り出し、そこで病没している。ちなみに二人の天皇の母となった藤原彰子も、この法成寺で亡くなっている。

GoogleMapで見る限り痕跡もなく吉田兼好も「徒然草」のなかで世の無常を伝えているし、宇治市木幡あたりにあった藤原一族の墓は誰がどこに埋められているかは、いまでは特定もされていないとのこと。

藤原家にとっては、息子は後継ぎで必要であったが、娘は天皇に輿入れさせて男児を生ませ、その男児が天皇になることで外祖父になることが、藤原北家の中での主流になることができた。天皇はそのためだけに必要な存在であった。権力も権威も藤原主流にのみ存在しており、天皇は看板であり藤原一族の権威と権力の裏付けでしかなかった。

国家を運営する上で必要なことは「能力」ではなかった。家柄は同族である以上差異はない。となると、力で争うのが世の常であるが、そういう愚かな実力主義は、さらに力のあるものが出現すれば覆ってしまう。武力や実力や能力でない「お墨付き」として天皇を利用することで、実にスマートな統治の仕組みを作ったものだ。