長岡京の話 その1

延暦3年(784年)11月11日、第50代桓武天皇により平城京から遷都され、延暦13年(794年)10月22日に平安京に遷都されるまで機能した。わずか10年だけの都である。

「続日本紀」に桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが記されている。「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」とする桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は種継の実家があり、支持基盤がある場所でもあった。

ちなみに、「山背国」は桓武天皇が「山城国」に改称し、それが縁で「城」が「しろ」と読まれるようになったとか。平城京時代の木簡を見る限り「山代国」・「山背国」の表記は並存していた。

長岡の真南にある八幡市(石清水八幡があるところ)には継体天皇樟葉宮と、ほぼ真北の長岡市と日向市の間ぐらいに継体天皇弟国宮があり、その間に長岡京が作られている。継体天皇は26代で、共謀凶悪最低な武烈天皇が17歳が18歳で突然死んでしまったので側近が越後から連れてきたのが継体天皇になったとされているが、真実は闇の中。

八幡市といえば、エジソンの電球のフィラメントに、当初、八幡の「八幡竹」が使われた。ついでの話として、八幡太郎義家は石清水八幡で元服したことから命名されている。

桓武天皇の母は高野新笠といい百済の武寧王の末裔。なにかとお騒がせの孝謙天皇・称徳天皇が崩御して白壁王が皇位を継承して光仁天皇になる。その長男が山部王。山部王の母が渡来人系だったため皇族ではなく官僚として生きることが定めであったが、藤原百川(式家)の暗躍で井上皇后と他戸親王を亡き者とすることで、光仁天皇から践祚され桓武天皇になる。

同母弟の早良親王を皇太子にする。早良親王も、山部親王同様に母の出自によって皇族の道をあきらめて出家して東大寺で高僧になっていたが、兄が天皇になることで急遽還俗し皇太子になる。

ここで、ちょっとまとめると、桓武はなるべくしてなった天皇ではなかった。式家・藤原百川が暗躍して井上皇后と他戸親王を亡き者にしたことで桓武に天皇になるチャンスが巡ってきた。つまり、桓武は藤原式家とべったりの関係であった。

東大寺の高僧であった同母弟の早良親王を皇太子にしたものの、桓武には実子(のちの平城天皇)がいた。

桓武が天皇になると、いきなり奈良平城京を捨てて山城に長岡京をつくることになる。それに、奈良の勢力が抵抗を示す。長岡京の造営を任された式家・藤原種継が奈良勢力によって暗殺される。そのことを理由に実弟・早良親王を桓武は幽閉させて餓死させる。

桓武の皇后は百川の兄の藤原良継の娘の藤原乙牟漏で、後の平城天応、嵯峨天皇を生む。藤原百川の娘の藤原旅子は後の淳和天皇を生。

桓武は天智系で、奈良の勢力は天武系皇族と東大寺の勢力であったため、それをた断ち切ろうとして造営したのが長岡京であった。

この続きは「その2」にて。