「合理的無知」の意味

合理的無知を端的に言い表すと、

「合理的無知」とは、

ある争点(issue)に関する知識の獲得にかかるコストが、その知識によってもたらされる利得を超える場合に、知識の獲得を控えること

とある。要は、そのことを「知る」「獲得する」「習得する」ことで、どれだけの利益となるかが「合理性」の基準となる。

「合理性」とは、最小の努力で最大の効果を上げることに尽きる。効果を望めなければ「無知」でいることが楽な生き方として望ましい。

合理的無知の必要性について

時間が「コスト」かといえば、稼ぎに忙しい人にとってはコストだけれど、時間持て余している人にとってはコストではない。時間は、単なる消耗材料でしかないが、あえて消耗しなくても勝手に消耗してくれる便利なものでもある。

知らないこと、興味のないこと、関心が持てないことに「無知」でいることに自分としての合理性があることを認めると、取捨選択が絞られてくる。

テレビはフィッシング詐欺と同じ

ネスレの元社長によると、テレビの宣伝にかけるお金が売り上げに直結しているわけでもないようだ。単に莫大なお金をかけて「そういうものだ」として垂れ流しているだけだ。フジテレビで広告出稿を辞めている企業がたくさん出ているらしいけれど、意外に売上に影響がないのかもしれない。

つまり、テレビの宣伝なんて見ているのはごく少数で、その中でも本当に買うのはさらに小数だけなのかもしれない。それでも、視聴率1%は1千万人になる。

自分にとっての合理的無知の価値

結局、人生とは「持ち時間潰し」でしかない。

利得は「充実」「満足」「空疎」「無為」「諦め」「苦痛」「幸福」等、様々あれど、すべては合理的判断によってなされるものではなく、むしろ、はなはだ「不合理」に得られるもののほうが多い。

つまりは「合理的無知」か「不合理的無知」かの2択でしかないのが人生。結局「無知」であることのほうが、生きるうえで価値(利得)に直結していそうだ。

荘子は、向学心は金銭欲と似ているという。なぜなら、「これで終わり」「これで完成」がないからだ。常に上を目指し続けなければならない。終わりもない。

さらに知りたければwiki参照

Wikipediaに「合理的無知」に関して、「マーケティング」「政治」「批判」などに分けて、詳細な記事が掲載されているので、「利得」が得られそうだと思われましたら参照してください。