「天皇家の葬儀」は、なぜ仏式から神式になったのか

「江戸時代(孝明天皇)までの天皇の葬式は仏式だったそうですが、明治なると突然神式になる理由は何ですか」と生成AIに聞いてみたら、geminiは「現時点ではそのリクエストには対応できません」と回答を拒否しました。

そこで、ChatGPTに聞いてみました。

  • 神道の国家宗教化
    明治政府は、日本の伝統的な精神文化を再興し、国家統合の柱として神道を位置付けました。この政策は「神仏分離令」(1868年)に始まりました。この令により、それまでの日本での神仏習合(神道と仏教が融合した形)が否定され、神道と仏教が明確に区別されることになりました。
  • 天皇を神格化するため
    明治政府は、天皇を国家の象徴であるだけでなく、現人神(あらひとがみ)として神聖視させることにしました。このため、天皇の存在を仏教的な葬儀の枠組みから切り離し、古代の神道に基づいた形式で葬儀を行うことが天皇の神聖性を高める手段とされたのです。
  • 近代国家建設の一環として
    西洋列強との競争の中で、日本は近代国家としての体制を整える必要がありました。その一環として、統治の中心に天皇を据え、神道を基盤とする国家観を強調することで、国民の精神的な一体感を形成しようとしました。仏式葬儀は仏教色が強く、それが神道中心の国家宗教観と矛盾するとみなされたのです。
  • 歴史的回帰への志向
    明治政府は「復古主義」という思想を推進しました。これにより、天皇の葬儀も古代の神道儀式に立ち戻ることが意図されました。これは、天皇の権威を古代の神話や伝説と結びつけることで、日本独自の国家アイデンティティを強調する目的がありました。
  • まとめ
    明治以降、天皇の葬儀が神式に変わったのは、明治政府の国家建設や宗教政策、天皇の神格化を目的とした神道中心主義の結果です。この変更は、単なる宗教儀式の変更以上に、日本の近代化と国家アイデンティティの再構築を象徴しています。

歴代天皇で初めて火葬されたのは持統天皇で、1300年も昔の大宝3年(703)のことだったそうだ。なぜなのかをChatGPTに聞いてみました。「推測の域を出ないが」という前置きに続けて

  • 仏教の影響
    仏教が飛鳥時代に伝来して以来、火葬は仏教の影響を受けた新しい葬送方法として認識されていました。仏教では火葬が「煩悩や執着を焼き尽くし、浄化する」という思想と結びついており、来世への良い転生を促すとされていました。持統天皇は仏教に深い関心を持っており、その影響から火葬を選んだ可能性があります。
  • 天皇権威の新たな表現
    従来、日本では土葬や古墳に代表されるような大規模な葬送儀礼が行われていました。しかし、持統天皇が即位した時期には、律令制度の整備や中央集権化が進む中で、天皇の権威や葬儀のあり方を変化させる必要があったと考えられます。簡素で合理的な火葬を選ぶことで、天皇の統治理念や新しい国家体制を示そうとした可能性があります。
  • 個人的信念や合理性
    持統天皇は政治的にも非常に先進的で合理的な人物でした。古墳時代のような巨大な墳墓を造ることは、莫大な労力や資源を消費するため、持統天皇自身がそれを望まず、より簡素な方法として火葬を選んだ可能性もあります。
  • 歴史的先例の創出
    日本では持統天皇が記録上、初めて火葬を選んだ天皇であり、この選択が後世に影響を与えました。その意味で、自らの火葬を通じて新しい文化的基盤を築こうとした意図があったとも考えられます。
  • 自然環境の制約
    日本は地形的に埋葬に適した土地が限られていることや、疫病防止の観点から、火葬が実用的な選択肢として検討された可能性もあります。
    持統天皇の火葬は、後の天皇や貴族階級にも影響を与え、日本の葬送文化の一つの転換点となりました。この選択が仏教的要素と日本独自の文化的背景の融合の象徴でもあると見ることができます。

孝明天皇までは京都東山の泉涌寺に埋葬された。古墳のような墳丘が復活したのは、明治天皇からだそうだ。

明治天皇の葬儀は大正元年(1912)9月13日の夜、神仏分離によって神道式で行われた。その葬列には平安時代の装束のほかに洋装の礼服もあり、儀仗隊や軍楽隊も加わって和洋混在の葬儀であった。もとは白だった喪服が黒になったのも欧米の風習を採り入れたもので、明治時代からである。

明治天皇の昭憲皇太后(美子)は子宝に恵まれず5人の側室を構えたものの、柳原愛子(やなぎわらなるこ)のみが成人する子をなしえた。しかし、成人したのは3男の大正天皇だけだった。大正天皇が暗愚であったという風説があり、その遺伝的な根拠を柳原愛子に求め、非難する傾向があったが、これは明治天皇の夭折した10人の子女の死因でもあるとのこと。

明治時代の天皇制に側室制度がなかったら、大変だった。葬儀が仏式から神式になり、装束が「白」から「黒」になったこともなんとなくわかった。

孝明天皇墓からは5キロ弱の南に明天皇墓がある。

平安様式に則った「大葬の礼」が、今後も執り行われるのかは不明である。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である以上、何らかのセレモニーは必要であるが、「神式」とか「平安朝」となると、パフォーマンスの度が過ぎるのと、憲法の政教分離原則に抵触することは間違いがない。

昭和20年を境に天皇の在り方も法律において大きく変わってしまった。「男系男子」をいつまで続けるという意思を国家が示すのか。葬儀は神式で平安朝で執り行おうとしているか。国費で支弁するのか。政治は何も考えようとしない。

何も決められない内閣が続いているが、決めなければならないことは官僚の顔色をうかがいながらではなく政治判断できちんと決めていかなければならない。それができないのなら権力を志向しないことだ。