「市役所という伏魔殿」という元明石市長
役人は「お上至上主義」「横並び主義」「前例主義」を教義とする宗教の信者だそうだ。その教義を守り通すことが、公務員の務めだと純粋に信じている とのことであるけれど、信じているのではなく「原理」になっている。
何か新しいことに取り組もうとすると、よそではどうなっているかの実例が不可欠になる。よって、入札などでは「実績」が問われることになる。始めてやることだったら実績はないから採用されない。
前例主義というのは、養老律令(757年)においての文書管理でも、なぜ、文書管理をするかの原点は、前例との齟齬を起こさないためであった。これは、今に至るまで引きずっている。
議会でいびきをかいて寝ている議員を市長が注意したら、逆に議長から市長が注意されたということがあった。「調和を乱すな」ということだった。
明石市長の敵も似たようなもので、役所と議会(主として自民党議員)だった。
その背景には、公共事業で食っている業者がいて、その公共事業を利権化している。役人が、どこまでその利権に関与しているのかは分からないけれど、贈収賄的に関与していないのであるのなら、既得権益を守ってやることで仕事がやりやすくなるような配慮があるか、上司の関与が考えられる。
特に公共事業を削ると業界はもとより、業界の支援を受けている議員たちは、存在の意義を失う。これが、選挙という民主主義が破綻している一つの背景になっている。
泉元明石市長が市長に就任した当時は、59歳、60歳の定年間際にご褒美のような形で部長になる慣習があったそうだ。市長が停滞すると、役所としてなのか、一役人としてなのかは不明であるが、地元の新聞と結託してマスコミリークをする。
たしか、加計問題の時に前川喜平さんが天下の読売新聞にやられた。これなども政権とメディアの結託の好例。
これを直すのは、一人二人のリーダーでどうにかなるものではない。「年功序列」「終身雇用」「身分保障」がそろっている職場で必要なことは「汚点」「失敗」をしないことだけになる。有能だろうが無能だろうが上からにらまれれば「汚点」になるから、個人的な思想・信条・価値観は持たないようになる。
よって、役人のプリンシプル(原理・信条)は「お上至上主義」「横並び主義」「前例主義」とならざるを得なくなる。
しかし、改善は権力行使による強権発動しかないのも事実。とはいえ、強権の背景に「Justice」がなければただの狂犬。