「枕草子」が描いた世界《其の20》

「其の19」で「宮中を出て400メートル南に行った「朝所に移る」としたのは、定子が喪中だからとしたものの、実際には関白・道隆が死去したことにより冷遇がはじまっていたということ。

屋のいとふるくて、瓦ぶきなればにやあらむ、暑さの世に知らねば、御簾の外にぞ夜も出で来、臥したる。ふるき所なれば、むかでといふもの、日一日おちかかり、蜂の巣のおほきにて、つき集まりたるなどぞ、いとおそろしき。 

 殿上人日ごとに参り、夜も居あかしてものいふをききて、「豈にはかりきや、太政官の地の今やかうの庭とならむことを」と誦しいでたりしこそをかしかりしか。
 

屋根が古く瓦ぶきなので暑くてたまらない。御簾の外に出て寝ている。建物が古いのでムカデが一日中天井から落ちてくる。蜂の巣もあってとても恐ろしい。とはいえ、ここに女房達がいるので殿上人が毎日やってきて夜を明かして話し込んでいく。「思いもしなかった。太政官の地が、このような庭となろうとはなんて。などと言う歌を詠んだりして面白かった。

とはいうのは嘘である。負け惜しみ、強がりである。

清少納言は、泣き言は一切言わない。すべてを受け入れ、定子と過ごしたすべての時間は楽しく美しく懐かしいものばかりだったという前提で回帰しているのが「枕草子」の骨頂である。

生ひ先なく、まめやかに、えせざいはひなど見てゐたらむ人は、いぶせくあなづらはしく思ひやられて、なほさりぬべからむ人のむすめなどは、さしまじらはせ、世のありさまも見せならはさまほしう、内侍のすけなどにてしばしもあらせばや、とこそおぼゆれ。

「えせざひわい」とは「似非幸い」のことであるが、ここでいう「幸い」とは「幸福」の事ではなく「幸運」のことらしい。「生い先」とは、「老い先」ではなく、「将来性」のこと。「将来性のない現実に起こりもしない幸運」を夢見ているような女の生き方ではダメだと言っている。

「さりぬべからむ人の娘」とは「それなりの家の娘」のことで、宮仕えをさせて世の中のあり様を見せてやるべきだし、「内侍のすけ」のような管理職の経験も積ませてやりたい ということ。

「栄花物語」でもっとも「幸い」な人間として藤原道長が描かれている。男の場合だと「幸運」で、女の場合だと「玉の輿」を意味する。平安時代の女性にとっては、男の身分階級で「幸い」がきまる。

藤原高藤は、雨宿りした家の娘と一夜限りの契りであったにもかかわらず高藤が都へ連れ帰り、生まれた娘が宇多天皇の后となって醍醐天皇を産むというような、超絶「玉の輿」のようなこともおこる。

藤原定子の母親も、大した貴族の家柄ではなかった(高階家)。が、藤原道隆に見初められたことで、娘を一条天皇の后にすることができた。

高階家

天武天皇と尼子娘の長子である高市皇子を祖とする皇別氏族とある。平安時代中期の高階成忠の時に、娘の貴子が関白・藤原道隆の正室となって一条天皇の中宮・藤原定子を産んだことによりにわかに繁栄し、成忠は従二位に叙せられて高階氏の氏人として初めて公卿に昇進した。

藤原定子と一条天皇との間に生まれた敦康親王が、本来であれば一条天皇の次の天皇になるはずであったが、藤原行成が「高氏ノ先ハ斎宮ノ事ニ依リ其ノ後胤為ル者ハ皆以テ和セザル也」と進言した。というのは、在原業平が伊勢斎宮の恬子内親王と密通して生まれた男の子を高階家に継がせたとする伝承がある。

伊勢神宮の怒りの部分は行間に挿入される形で枠外に書かれていたので後世の加筆ではないかとする意見もある。

末裔には高師直がいる。