「枕草子」が描いた世界《其の21》

宮仕へする人を、あはあはしう悪きことにいひ思ひたる男などこそ、いとにくけれ。
げにそもまたさることぞかし。かけまくもかしこき御前をはじめ奉りて、上達部、殿上人、五位、四位はさらにもいはず、見ぬ人は少なくこそあらめ。女房の従者、その里より来る者、長女、御厠人の従者、たびしかはらといふまで、いつかはそれをはじかくれたりし。

宮仕えする女房をあしざまに言う男などは憎らしい。とはいえ、それにも一理はある。帝をはじめ公卿、殿上人、五位、四位といった貴族はもとより、女房の召使、実家から来るもの、下女、便所掃除の者など、取るに足らないものに対してだって、いつ、それを恥じて隠れたりしたことがあるものか。

※たびし:礫のこと、小石 かはら:瓦

ようは、両家の子女は軽々に人々の前に顔を出すようなことはしないものなのに、女房になると果ては「たびしかはら」にまで顔をさらしているということは、公職の男たちのお手付きになりやすいことを言っており、今どきの言葉でいうなら「尻軽」であるという男たちの非難に対しての少納言の見解を示している。

とはいえ、女房という仕事していれば帝に合うこともあれば、上級の貴族にだって会うことがある。その結果、恋をしたり、捨てられて利することはあるものの、チャンスをゲットする女房の少なくはない。

「伊勢」という女流歌人は、藤原北家真夏流、伊勢守藤原継蔭の娘だった。宇多天皇の更衣だった藤原温子(基経の娘)の女房として仕えた。藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際の後、宇多天皇の寵愛を受けその皇子を生んだが皇子は早世した。その後は宇多天皇の皇子敦慶親王と結婚して中務(歌人)を生んでいる。

敦慶親王の母は、今昔物語にも登場する藤原胤子で、醍醐天皇の同母弟。容姿にすぐれ、「好色無双の美人」と評されたとあり、源氏物語の光源氏のモデルという説もある。

高階貴子は、円融天皇(醍醐天皇の孫)の時代に内侍として宮中に出仕していた。和歌をよくし、漢詩・漢文にも精通していた。詳しい話を見つけていないけれど、藤原北家嫡流の藤原道隆の正妻になり、伊周や定子を産んでいる。

貴子は末流貴族の出身ながら関白(道隆)の嫡妻、かつ中宮(藤原定子)の生母として栄達し、高階成忠は従二位と朝臣の姓を賜った。

少子化対策として「一夫多妻」というパワーワードが取りざたされているが、一夫多妻であっただけでなく、高級貴族や皇族の末裔は望み次第に女性を愛することができたし、多くの貴族の女性も、それを望んでいた。

庭園に池を作り船を浮かべて和歌を詠んだり、琴や笛をたしなみ三々五々集まっては打ち興じていた時、街では飢饉や疫病で死屍が累累としていた。

このまま人口が減少していく過程で、AIやロボットが活躍するようになると、労働者が不要になっていく社会になる。同時に富はごく一部に集約され、仕事にありつけない人たちは生活保護かベーシックインカムに頼ることになっていく。この2極化は回避不能である。

となれば女子に生まれれば、チャンスをつかむ方法は限定されてくる。高階貴子を見習うとしたら、「売り」を磨くことが不可欠になる。