「枕草子」が描いた世界《其の22》

うへなどをいひてかしづきすゑたらむに、心にくからずおぼえむ、ことわりなれど、また内裏の内侍のすけなどいひて、折々内裏へ参り、祭の使などに出でたるも、おもだたしからずやはある。さてこもりゐぬるは、まいてめでたし。受領の五節いだすをりなど、いとひなびいひ知らぬことなど、人に問ひ聞きなどはせじかし。心にくきものなり。

ここの文章は、意味の取り様が何通りかできてしまう。「うへ」というのは誰か? おそらくは亭主の事だろうか。内助の功も「心にくからず」とは言うけれど、内裏で行事があって役割があるのも「おもだたしからずやある」。つまり、「晴れがましい」ということ。

といいながら「さてこもりゐぬるは、まいてめでたし」とあり、「さて」がよくわからないけれど、前後から考えて、結婚はしても家に籠ってしまうのは能がないことだと言いたいのであろう。

結婚後にも内裏での役割を持ち、時機を見て家にこもるような生き方が「めでたし」ということ。

「受領の五節」の後の文章は、「亭主が受領」になって「五節」で舞う女性を見つけなければならないときなど、田舎だからといって人に聞いて回るようなことはしてはならず、さげすむべきことだと言っている。これでは内助の功どころのことではないという意見。

清少納言自体が女房勤めをしており、藤原定子の母である高階貴子も、内裏で和歌や漢詩で名おとどろかせた結果、藤原北家の嫡子である藤原道隆の正妻になって、伊周や定子に和歌や漢詩を叩きこんでいる。

「枕草子のたくらみ」で著者は、橘徳子(典侍を務め従三位に至り橘三位と称された)は、橘仲遠(若くして大学寮に入り、後に蔵人となり藤原忠平の侍読を務めた)の娘。彼女は懐仁親王(のちの一条天皇)の乳母となり、藤原有国が妻にする。

この藤原有国もいろいろと情報を多く残している。まず、冷泉天皇が即位すると守平親王(円融天皇)の雑色になる。花山天皇の即位において懐仁親王(一条天皇)において出世する。出世の背景として藤原兼家(道隆や道長の父親)に重用されていることで出世の速度を上げている。

病に襲われた兼家は、後継を誰にしようか相談したものの、有国は道兼を推挙したが、兼家は道隆を後継に選んだので道隆に憎まれ降格させられ、ある事件に関与したとして官位を剥奪される。それを救ったのが妻である橘徳子であった。

徳子は、懐仁親王(のちの一条天皇)の乳母となり、一条天皇と定子の第一皇女脩子内親王著裳に際して理髪役を奉仕し、第二皇子敦成親王(のちの後一条天皇)誕生に際して乳付役を奉仕して、藤原彰子から贈り物をもらっている。

清少納言にすれば、能ある女性は積極的に宮仕えをして運をつかめと言いたい。そういう清少納言も宮仕えをしたから藤原定子と出会うことができたし、それが清少納言の人生の希望となった。