「渋江抽斎」という人を知ってますか?
1805年、弘前藩の侍医、渋江允成と3人目の妻縫との子として江戸の神田に生まれる。儒学を考証家・市野迷庵に学び、迷庵の没後は狩谷棭斎に学んだ。医学を伊沢蘭軒から学び、儒者や医師達との交流を持ち、医学・哲学・芸術分野の作品を著した。津軽順承に仕えて江戸に住む。考証家として当代並ぶ者なしと謳われ、漢・国学の実証的研究に多大な功績を残した、特に『経籍訪古志』は、森立之との共著だが優れたものである。
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森鴎外に精通している人なら知っているのかもしれません。個人的には森鴎外は得意な人ではないのですが、どういうわけか図書館から借りてきてい読んでいます。
森鴎外も、当初は全く知らなかったようですが、彼の興味で「武鑑」を集め出したところ「渋江抽斎」の印を押してあるのが多いところから興味を持ち出して情報を集めたようです。
森鴎外が、どうして「武鑑」に興味を持ったのかは不明です。
江戸時代になって多数の武家が都市に集まるようになり、武士と取引を行う町人達にはそれらの家を判別する必要があった。武鑑はそのための実用書であり、また都市を訪れる人々にとってのガイドブックの役割も果たした。
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武鑑のコレクションとして森鷗外の鴎外文庫(東京大学総合図書館蔵)は有名なようです。小説家として、リアリティを持つために武鑑を調べる必要があったのでしょう。そして、その先に渋江抽斎のコレクションがあったことが新鮮な驚きだったようです。
しかし、そこからこのように長い小説にする意図は、今一つ不明です。和辻哲郎は、「あれだけの力を注いだ先生の意を解しかねる」としています。石川淳は、「古今一流の大文章」と絶賛しています。佐伯彰一は「大方の文学読者、批評家は、さりげなく口をつぐんでやり過す」との評。
冒頭から結構難しい言葉が頻出しますが、読み進める覚悟はできています。
少しググったら抽斎の4番目の妻の五百のエピソードがPDFで掲載されていました。
この話は鴎外の「渋江抽斎」にも書かれているようですが、少し触れておきますと、文久2~3年ころに五百が蔵前で知り合いになって割烹に入ると、騒動が起きてそれが静まると捕手がきて「お前等も一味だろう。有り金を出せばよし、さもなければ切る」と脅したところ、五百は懐剣を抜いて「このウソつき者めが」と一喝して男ににじり寄ったら、男は後ずさりした挙句階段から落ちて気絶してしまったとさ。