「生物年齢」で考える寿命
「年齢」の考え方というと、通常は生まれた年から生きてきた年数を誕生日の回数で数えることが普通である。しかし、生物である以上「生物年齢」という考え方もある。
みた目でも、実年齢よりも若く見える人もいれば、老けて見える人もいるし、高齢になっても重量挙げしたり、短距離走をする人もいる。
「生物学的年齢とは、加齢とともに体全体に生じる様々な現象のことをまとめて呼ぶ言葉」という定義もあるようです。細胞分裂の回数は、染色体の端についている「テロメア」というカウンターが減少してくることで、生物は細胞の寿命を管理している。
多くは遺伝の要素が多いように思うものの、生活習慣の影響やストレスの多寡も大いに影響している。テレビなどでも血管年齢がどうしたこうしたというような番組を結構やっているけれど、これも実年齢と生物年齢の違いを数値化している。
ただし、生物年齢を若返らせることができたとしても、それで寿命が延びるわけではないし、癌や循環器病に罹患しないというわけでもない。
多くの子供産んだ女性は年齢より老ける傾向があるという話も聞くけれど、それは女性が自らの命を削って子をなしているという証左に他ならない。
「生物年齢」があるなら「体感年齢」という考え方もある。「生物年齢」はいささか科学的なので客観的であるのに対して「体感年齢」のほうは100%主観的である。
「体感年齢」のほうは「充実」と関連を持つであろうことが予測される。空疎に生きるより、「007」のように、世界中を飛び回って生きるほうが同じ人生を体感として短く生きることができるように思う。
とはいえ、人間は一通りの生き方しかできないから比較はできない。自分は、どちらかと言えば「空疎」に生きてきた。この歳になってみたら、そんなに長いことではなかったように思うのは、単に記憶が維持されていないだけのこと。
生んでくれた親には感謝しているけれど、親の期待に応えたとは思えないから、いずれあちらの世界で親に再会できたら謝るしかない。
その意味では「人生価値」は「希薄」で「空疎」だったと言える。充実はしていなかった代わりに、禍根も少なく生きることができた。あとは、社会に迷惑をかけずに消えていくことを最後の望みとしたい。