「石丸悪人説」が到来する

GG鈴木チャンネル

結論から先に言うと、「GG鈴木チャンネル」で、鈴木さんは都知事選が決着がついたのちのメディアと石丸伸二とのやり取りが、非常に有意味であるとしている。

GG鈴木氏は、選挙戦の報道の在り方について、主要メディアはオワコンであるとしている。選挙戦を戦った候補者に対してインタビューをする人材やキャスターのレベルを上げるべきで、その報道からどういう情報を視聴者に伝えようとしているのかという基本的な立脚点すら持ちえない現状を石丸伸二が明るみに出すことができたとしている。

本来は、東京都の知事として何がしたいかを選挙前に十分な情報を報じなければならないのに、最初から「小池VS蓮舫」を設定しており、小池が勝った後、蓮舫が涙ながらに「力及ばず」と言って落胆する絵を想定していたというマヌケさを露呈していた。キャスターもコメンテーターも同程度のマヌケをそろえて尺を埋めればマヌケなスポンサーと電通が喜ぶぐらいにしか考えていなかったのであろう。

主要メディアの選挙インタビューで使用する共通キーワードは「手ごたえ」「風」で、勝てなかった場合の落胆・弁明、願わくば「涙」「謝罪」があればチャンチャンを予定していることが見え見えだった。

以下は、些末なことであるがTBSラジオの武田砂鉄というライターとのやり取り。この武田砂鉄という人は、頭が悪いのか、それとも「石丸をやり込めろ」とメディアから依頼されていたのかは不明だけれど、みっともないほどの独りよがりで「悪人説」を流布しようと躍起になっていた。

これからしばらくの間は、このような「石丸悪人説=アンチテーゼ」が展開されるが、すべては論破可能なものになるはずである。が、メディアは石丸伸二を呼んで話をするためには対応できる人材がいないので、今後、石丸伸二は政治討論の場面には「出禁」になるだろう。メディアは愚か者を洗脳するだけの力はあるので、愚か者を自負する人は注意が必要(賢い人にとってテレビは終わっている)。

TBSラジオの選挙後の番組

武田砂鉄というひとが「覚悟の論理(石丸伸二の著作)」を熟読(彼にとっての熟読は付箋を貼ることらしい)したということから石丸伸二へのインタビューが始まる。

[砂」:メンタルが強いかって言われたというと、その相手の問題はどうなっても私は知りませんよと割り切れるというところに書かれていてですね

ちょっとこう政治をやられる方からするとこの相手の問題がどうなっても私は知りませんよっていう風に言われるとちょっとぎょっとしちゃうなというところも感じたんですけれども、選挙戦でいろんな立場の人とお会いしてお話することがあったと思いますけれども、この本に書かれたことっていうのは特に考えとしては変化はないですかねん?

[石]:どういう点をぎょっととされたんですか?そんなにおかしなこと言ってるつもりがなかったんですけど、どこに違和感覚えられます?

[砂]:僕自身が違和感覚えたのは、ま、政治ってのはいろんな意見を受け止めて考えを変えてったり考えを強化してったりってことの繰り返しだと思いますけれども、相手の問題がどうなっても私は知りませんよっていう風に言いきれるっていうところが自分の メンタルの強さだっていう風に言われると、なかなかそこに対して意見を届けるってことが難しくなっちゃうんじゃないかなという風に思ったんですけどね

[石]:失礼ですが本当に熟読されました

[砂]:熟読しましたね、めっちゃ付箋張ってますね

[石]:あのそういう風な思いでは言っていません。はい自分の責任の範囲を定義するという意味においてその話をしてます。で政治において意見のやり取りをするってのは当たり前ですよね。それを否定はしてないはずです。

[砂]:う~ん

[石]:否定してましたか?

ここで、時間切れ。で、石丸伸二とのマイクが切断されてから、マヌケそうな4人が悪態(遠吠え)をついていた。

ここまでの会話は、ほぼ、正確に文字起こしをしている。以下は本の要約。砂鉄は、石丸さんの本を熟読したと言っているのに「相手の問題はどうなっても私は知りませんよと割り切れる」とする部分の出典を明らかにしていない。

覚悟の論理

覚悟の論理」の該当部分を要約する。P.207、節のタイトルは「自分の責任でない結果はクリアに割り切る

よく「市長はメンタルが強いですね」と言われます。そう見えるのはおそらく、もともとの性格の特徴に加えて、自分の立場や役割を、相手の立場や役割と切り離して考える習慣があるからです。どこまでが自分の問題で、どこからが相手の問題か、明確に線を引いている。その結果、極端に言えば、相手の問題は「どうなっても私は知りませんよ」と割り切れる。だからメンタルが強く見えたのでしょう。

例として、安芸高田の道の駅に無印良品の出店しようとしたときのことを挙げている。無印良品を誘致するための費用を補正予算に計上(先決で)したものの、議会の多数派が計画に反対し、事実上の白紙になってしまった。計画自体は市民にとっていい計画であったが「もったいないな」と思うものの、決めるのは市長の役割ではない。

それを決定するかの判断は議会の役割であって、提案し終えた時点で責任は市長にはなく、議会にバトンタッチされているので、それがどのような結論になったとしても市長として落ち込む必要はない。決定の責任は議会にあり、その議員を選んだのは市民であるのだから仕方がないと割り切っている。この提案が実現しなくても市長としての失敗という自己評価にはならない。

議会の意思決定の責任は議員にある。市長は、市役所のマネジメントについて100%の責任を負うべきである。どこまでが自分の責任であるかの範囲を明確にすることで、自分の役割に対して己の全てを投入できる。つまり、責任の線引きを曖昧にしないということは、責任も曖昧にすることができなくなるということでもある というくだりから「極端に言えば、相手の問題は「どうなっても私は知りませんよ」と割り切れる」という部分だけを付箋を貼って、切り出して叩こうとしている。

こういう場面の、一部のフレーズを切り出すことで、砂鉄は「これでやり込める、ギャラがもらえる、次の仕事につながる」と欣喜雀躍(きんきじゃくやく)してスタジオに乗り込んでいるのだろう。人の会話を聞きもせず、自分がどうやって石丸伸二をやり込められるかに夢中になってしまった古市某と次元と脳みその偏りレベルは、ほとんど似たようなものであった。

補足

石丸伸二が「テーゼ」になり、それなりの存在を示してくると必ず「アンチテーゼ」が生まれてくる。特に今回は主要メディアと称されるテレビ、ラジオ、キャスターの中でも無能な連中を、そのまま十全に無能者として明るみに晒してしまったため、彼らの影響力を駆使して「アンチ」を始める。

石丸伸二が悪人にならなければ、主要メディアの沽券にかかわるという勢いで攻め立てていくであろう。

アンパンマンにはバイキンマン、鬼太郎にとってはネズミ男、のび太にとってはジャイアンがいて、ストーリーは成立する。

しかし、事の本質は、石丸伸二が実現しようとした世界観と、政治屋・小池百合子の世界観を対比させて分析するような番組にしていかなければ、いつまでたっても子育てママに都税からバラマキ、電通や三井不動産に濡れてに粟(都税)を掴ませている現職は有利であり、東京一極集中、国力低下という根本問題に有権者の意識形成ができるはずもない。

天下国家のことを考えるより派閥のポストを上げることに夢中な裏金議員を選んでいるのは国民であり、国民を愚か者と睥睨し間抜けた報道しかしないメディアを野放しにしているのはスポンサーであり、そのスポンサーを糾弾することなく消費しているのも国民である。

よって、「相手の問題はどうなっても私は知りませんよと割り切れる」かというと、上を向いて唾を吐くようなことで、相手(メディアや政治家やスポンサー企業)の責任ではなく、結果として自分の責任であることに帰結するのが民主主義という制度でもある。ここをどのように割り切るかは「責任」の線引きでは解決がつかないが、制度としては割り切るしかない。