「遊び」の骨頂とは?

「遊び」とは、かねては「飲む」「打つ」「買う」であった。いまでは原則として「買う」は許されていないが、この遊びの3要素が示していることは「益」を「無益」に変換する作用のことである。

汗水流して働き、得た賃金を酒を飲んで小便にしてしまう。博打を打って尻の毛まで抜かれる。女性と遊んで終わる。

物を持たない、資産に執着などしない、明日のことは明日考える。宵越しの銭は持たない。

エントロピーの最たる考えであり実践である。

これができることが「遊び」なのであって、資産を十分に持って余禄で「車が道楽」とか「カメラが道楽」のような考え方は、「遊び」ではなく「道楽」である。「遊び」の骨頂は「破滅」と紙一重であると言える。

「やせ我慢」と「刹那」を極める生き方である。

遊ぶとどうなるのか? 「枯れる」のである。言葉にはならない何かが分かるのである。生きることの無意味が分かるのである。トルストイの書く「イワン・イリッチ」が死んだ瞬間に「あれほど恐れていた死がなくなった!」と歓喜し、「人生には意味などなく、苦悩にも意味などない」ことがやっとわかる瞬間にたどり着けるのであろう。

と、ふとそんな感じを48億円をかけた東京都庁のプロジェクションマッピングを見て思った。都民の血税という「益」を、かぎりなく「無益」なものに変換している所業は、行政のやることではなく「遊び人」のやることだ。

パリのノートルダム寺院のプロジェクションマッピングは2年で2200万円だとか、、、。

知事は「わたしは無から有を生むことをやってきた」と自慢げに言うが、都民から集めた「血税」は彼女にとっては「無」であるという認識で、電通や三井不動産に図る便宜が彼女にとっての「益」であることを如実に示している。

石丸伸二さんは、「明かりがないから札束燃やして明かりにする」くらい「破滅」に近い発想だという。つまり、あれを提案し裁下した連中(ひとりだったらしい)は、「遊び人」のようなものであるけれど、実は「遊び人」ではない。

なぜなら、自分で稼いだ金ではないからだ。会社の金を横領してバクチや投資や女につぎ込むのと基本は同じだ。東京都の無駄遣いは法に触れないだけの違いでしかない。むしろ、自民党的でタチが悪い。

つまり、知事を筆頭に議員も行政の役人も「遊び人もどき」が、仕事人のふりをしているだけなのだ。

国民から集めた税金を、無能な政治家の懐に流し込む「ざる法」を作るのに半年もかけているのも、政治家は「遊び人もどき」として政治という無益な所業で「益税」を「裏金」に変換しているだけなのだ。

選挙権を持つくらいの年齢になると、「政治には意味などなく、選挙にも意味などない」ことが分かってしまっているのだ。能のない政治家に能があるように見せかけるのが東大を出た官僚の仕事になっている。

道元は「無常が自ら無常を説くこと自体が無常なのである」といい、「無常」は「永遠」と対立する概念ではないとする。その意味で聖者も凡夫も無常なのである。

自らが正しいと思う道を歩むことが正しいのだというのも、単なる思い込みでしかないことを、あの不条理をデジタルにして映し出しているプロジェクションマッピングにすることで、ことさらに思うのであった。

いよいよ、東京から動かす時が来ている!

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