「過去の歴史を見出した」過去の歴史
江戸時代を代表する国学者の一人である本居宣長(1730~1801年)は、日本社会が古代以来中国大陸からもたらされた文化や風習にまみれてしまったことを悲嘆します。
宣長は、仏教や儒学など、中国大陸からの影響を「漢意(からごころ)」として批判し、それらを排した本来の姿を追求しますが、その過程で重視されたのが、過去の考証でした。
宣長は『古事記』や『日本書紀』などを通して仏教伝来以前の日本に想いをはせ、中国と比較した日本の優位性を主張していくのですが、その根拠の一つに掲げたのが「平和」の持続性だったそうです。そのような解説は初めて目にするのですが。
頻繁に王朝が交替し、争いの絶えない中国に対し、日本は古代から天皇を戴く体制が持続する稀有な存在である、と。
徳川家が国を治めて以来、日本には国内外で大きな戦闘を起こすことなく平和な社会が長期にわたって続いていることを指摘します。
戦争のない時代に生まれ育った彼らにとって、平和な時代は江戸時代においては日常のことでしたが、そうした平和がいつから続いているのか、なぜ続いているのかが、大きな関心事として注目されたわけです。
現在も戦争のない時代に生まれ育ったひとで社会は充満されていますが、江戸時代の人たちとは違って、平和は水道の蛇口をひねれば水が出るのが当たり前のように、平和も空気も水のようなものと思うことはあっても、平和が続いていることに「なぜ」と思う人はほとんどいないでしょう。
国学は、古代日本人の精神性である「古道」を解明していく流れから「万葉集」などを研究していくこととなります。
そんな流れは、江戸時代後期の平田篤胤に至って、復古神道が提唱されるなど宗教色を強めていき、やがて復古思想の大成から尊王思想に発展していくことこととなり、そうした考えの「残滓」というか「片鱗」が、いまだに天皇の神性に結び付けようとしていると言えそうです。
尊王思想とは、単に討幕のためのスローガンでしかなかったわけで、薩長が天下を取った途端に「攘夷」のはずだったのに一気に西洋化へと突き進んでいきました。
天皇制は日本の文化として存続することは大いに賛成しますが、大正以降、側室を持たなくなったことから、天皇制の維持は非常に難しくなってしまっています。
皇室に輿入れしたら「子供を産むこと」が何にもまして期待され、しかも、男児を産むことが輿入れした女性の最大の責務とするようなことを「国家」が強いることは、それを「伝統」というべきことではないように思います。
どうするのがいいのかは皇族を含めて知恵のある人たちで、そろそろ決めなければならない時代になっているような気がします。
その際に、庶民(平民?)の持つ「尊王思想」や「尊王感情」などは、やたらとメディアが取り上げる必要はないと思います。皇族方が主体となって決めるべきことのように思います。
選択は2つで、一つは女系天皇を受けれることで天皇制が維持できるのかという視点と、他一つは、男系にこだわり過去にさかのぼって降下した男系から男児に皇統を継がせることで天皇制が維持できるのかという視点になります。
いつ決めるのかとなると選択は2つで、一つは「今」現在の国民の総意で決める。他一つは自体が差し迫ってから決めるになります。が、それ以前の問題として、経済の立て直しが最優先になるでしょう。
財務官僚が支配する自公連立政権が長すぎたツケをどうやって排除するかの方が喫緊の課題になります。今の野党では、財務官僚を叩き潰すだけの実力がなさそうですので、石丸新党が成長して国政を牛耳るまで待つとするしかなさそうです。