『種の起源』と「適者生存」

ダーウィンが提唱した「進化論」は自然科学に革命を起こすにとどまらず、政治・経済・文化・社会・思想に多大な影響をもたらした。

英語で「適者生存」は「fittest」というらしい。「fit」することの最上位ということ。

『種の起源』を最初に翻訳(1896-明治29年)したのは、夏目漱石の大学時代の同級生、立花銑三郎という人だそうだ。現題は「生物始原」。大正には大杉栄による「種の起源」も出されている。

ところが、『種の起源』の原書初版には、「適者生存」という言葉は一切出てこない。そもそも、ダーウィンはevolution(進化)ではなく、「descent with modification (変化を伴った由来)」という用語を使っている。

「適者生存」の反対の概念として「有害な変異が除去される」という考え方もあった。

ダーウィンにとって、自然選択は特定の環境下で「有利な変異の維持」と「不利な変異の除去」により、新しい性質を作り出す、創造的な意味を持っていた。

自然による「創造性」を考えると、新たな変異を追加しようとする作用。同時に、変異を受け入れず現状を維持しようとする恒常性も創造性として考えることができる。

ただし、環境自体が変化すると、恒常性は維持されなくなり、新たな環境に適応できる変異が主流となる。

つまり、「適者生存」とは適合しない変異を排除するという意味で使われてきたのに対し「自然選択」は、環境の変化に応じて適応する変異を自然が選択していくという創造的な意味で使われていた。

しかし、「自然選択」には、能動的な言葉のニュアンスがあることもあり、時間の中(「種の起源」第5版)で「適者生存」と「自然選択」を同義として使うようになった。

人類学も進化論を前提にしていた時代があった。いま、仮に未開の民族であっても、いずれは先進国民の主主義や、テクノロジーのような文化になるというような仮説であるが、こうした考えは20世紀に入ってから否定されている。

今の政治を見る限り、国政であろうが地方自治であろうが、退化の一途をたどっている。にもかかわらず、彼等は「金」と「権力」で幻惑されていて、相対的な位置を見失っている。「適者生存」だと自負しているようだけれど、有権者さえ目覚めれば「不適者廃滅」の「選択」が働くようになる。

そうならないのは有権者が「痴呆」「阿呆」なだけだ。いずれ目覚めるとしても、手遅れにならないうちに目覚めることを祈るしかない。

高齢者は集団自決しろといった若手の学者がいたが、集団で自決されると後処理が困るので、せめて被選挙権も選挙権も70歳くらいで取り上げるような法律を作れば、少しは政治に健全性を取り戻せるのかもしれない。