「さぼ郎日記」の名前の由来
「さぼ郎日記」という名称は、「七十路がみる景色」になる前の名称でした。それを前提にしないと話がつながりません(2023.7.2 追記)。
その昔、といっても千年も前のことですが藤原兼家という藤原北家の本流の貴族がいました。「大鏡」によれば兼家にはいろいろなエピソードがありますが、それは前後左右の人間関係から始めないと面白みを伝えることができないので、ここではやめておきます。
この兼家には国司の娘の「時姫」が第一夫人で、第二夫人が俗に「道綱の母」とされる女流歌人で、「枕草子」にも歌が紹介されている人です。彼女が書いた日記は後世にも残る有名な「かげろう日記」ですので、「さぼろう日記」とちょっと似ている語感が気に入っています。
「大鏡」にも兼家の傍若無人ぶりが書かれていますが「蜻蛉日記」に書かれている兼家は、もっと赤裸々な中年の男として描かれていて、とても興味深いと感心しています。
例えば「枕草子」というと、通常は国語で習う教材ですが、実は歴史ドキュメントであると同時に、一条天皇と藤原定子の人間関係などは、感動ものとして描かれていますが、定子の父が藤原道隆で、その父。つまり定子からすると祖父が兼家と言う関係になります。
「枕草子」ではあまりいい人としては描かれていない藤原済時は朝光と共に兼家の飲み友達で、兼家臨終のときに「最後に念仏を」と言われて兼家は「済時と朝光は極楽で待っていてくれているだろう」と言うほどの酒飲みだったそうです。
そういう角度から「枕草子」や「大鏡」を読むと、とても深い感動が得られます。「蜻蛉日記」からは深い感動は得られはしませんが、とはいえ、そこに兼家と道綱の母との関係から浮かび上がる人間模様は千年を隔てる時間は感じられません。
貴族であろうが、社会のあり方が異なっていようが、そこにいるのは「人間」だということです。
余談ですが、「和泉式部日記」に登場する和泉式部は冷泉天皇の第三皇子である為尊親王と恋をし、為尊親王が亡くなると弟の敦道親王の求愛を受け入れ敦道親王の邸で同居を始めると、正妻が出て行ってしまうのですが、この正妻は済時の娘だそうです。
為尊親王、敦道親王と三条天皇は兼家の娘の超子が生母と言う関係。
「大鏡」では、為尊親王、敦道親王を「軽薄」と断罪していますが、「和泉式部日記」に描かれている敦道親王と式部との和歌のやり取りは日本文学史上、傑出しているものとしてこれから先の未来にも、つながれていくものでしょう。すごい時代があったものです。
あと千年もすると、今の令和の時代の人間模様を描いた小説が珍重されているのでしょうか。