ちょっと、中江兆民
明治6年、岩倉使節団は帰路に着く。マルセイユから紅海、インド洋、東シナ海、中国に立ち寄りながら1年10ヶ月の旅を終えて帰国した。
欧米は文明の先進国であったはずであるがアフリカ、インド、アジア、中国における「白皙赤髯の航客」が欧米での振る舞いと異なる様相を示すことに驚いた。アフリカ、インド、アジア、中国の人々を見下し、侮辱し、ちょっとしたことで怒り暴言を吐く。
使節団の人々は、アフリカ、インド、アジア、中国にやってくる人々は文明国ではやっていけない「棄てられた民」のような人々であって、白皙にして紅毛であるからと言って外見に惑わされてはならないと考えた。
10年ほど後に使節団と同じようなコースを巡遊した板垣退助もアジア・アフリカの植民地の実態は貴族と奴隷のようであり、貴族の特権をほしいままにする欧州人を「私欲あくなきの徒が登用に出没して以ってひたすら己を利することを計り、為に全く正理公道を亡失したものなり」と述べている。
中江兆民。1847年ー1901年。
「兆民」とは「億兆の民」ということで、本名ではない。「秋水」とも名乗り弟子の幸徳取水に譲っている。
土佐のひとで幕府の語学所でフランス語を学び大久保に頼み込んで岩倉使節団に採用されフランスに滞在し、ジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」を翻訳する。
パリ留学時代にルソーを学び、ヴィクトル・ユゴーを愛読し人民主権原理を身に着けていた中江兆民も、使節団と同じコースで帰国したが、帰路における白人の蛮野鄙陋の侵略行為こそは、文明からのはみだしではなく、文明と表裏をなすものだと喝破した。
文明を信仰し、後発にもかかわらず隆盛の小国・プロイセンを範にしようとした使節団とは異なり、人民の主権から国家をとらえようとしていた。
荘子は言った。
文明とは自然からの乖離のことだ と。