サクマ式ドロップス考

「サクマ式ドロップス」といえば「火垂るの墓」になる。最近テレビでやらなくなった。一説では放映権が絡んであるのだそうだ。ジブリの多くの作品に日本テレビが放映権を持っているとのこと。つまり、日本テレビが放映を許可しなければ日本のテレビでは見ることができない。

NetFlixでは、日本を除く世界中でみることができる。海外の人に「サクマ式ドロップス」といったところで意味は通じない。まして廃業したらしいし。

冒頭、いきなり清太が「1945年9月21日夜、ぼくは死んだ」から始まる。その清太が持ていたサクマ式ドロップスの缶を清掃員が草むらに捨てると蛍が沸き上がり、そこに節子が登場する。その節子を見守るように死んだばかりの清太が立っている。

節子は清太が死ぬのを待っていて、やっと二人は死出の旅に発つというようなシーンをイメージさせる。

実は9月の神戸に蛍はいない。この蛍は、空襲で意味もなく死んだ人々の「霊」を想起させる。清太が節子に蛍を一杯あげるシーンもあり、そこで節子が「なんでホタルすぐ死んでしまうん?」というシーンにも蛍を暗示的に使っている。

節子の声をやったのは5歳の白石綾乃さんだった。通常は映像を作ってから、口パクに合わせて声優が音声を合わせていくのだそうだが高畑監督は、声を先に録音してから絵を合わせていったとのこと。そのほうが、音声の流れが自然になるそうだ。

5歳の白石さんはセリフを元気よく話してしまうので20回も30回もNGだして疲れたころの声を使ったとか。

冒頭の死ぬシーンから、節子と清太が列車に乗って空襲で真っ赤に燃える列車に乗っているシーンには、二人が死んだ遠因に空襲があったことを暗示している。この列車のシーンは、「銀河鉄道の夜」でハレルヤが流れるシーンを思い出した。

高畑監督自身は「この映画では戦争は止められない。戦争を起こす前に何をすべきか、行動を促す映画こそ必要だ」と語っていたそうだ。その思いと、このアニメのつながりがよくわからない。

野作昭如の原作には「サクマ式ドロップス」は登場しないが、節子が舐めたかったドロップスであり、節子の骨を入れてあった骨壺であり、結果として節子を死に追いやってしまった清太の煉獄を象徴する主要な役割を担うことになった。

清太と節子の魂は、地獄に落ちれず天国にも登れず、この80年さまよいながら戦後の繁栄を冷徹に眺めているのかもしれない。

清太がいいとか悪いとかではなく、「時」とは、本人の選択などお構いなしに結果を運んでくる。

戦災孤児という実感の記憶はないけれど、上野公園の階段に傷痍軍人がアコーディオンを弾いており、銀座線の不忍口の地下道にはホームレスがたくさん寝ていた。荒川の河川敷にはトタンで作ったバラックが列をなしていた。

いまでもウクライナやパレスチナでは、凄惨な殺戮を平然と行っており、毎日毎日そこに節子や清太が作り出されているけれど、時代はそこに「お涙」を頂戴することもなく時を進めている。

何よりも、プーチンにしろネタニヤフにしろ、多くの人民を煉獄に突き落としながらも、いまだに安穏として国家運営に君臨している事実が示すものは、「戦争は止められない」の一言に尽きる。

人民の死は、死傷者数の数の「1」として加算されるだけだ。