ジャーナリズムとは?
英語では「journalism」と書く。
発生からすると、「印刷物でも定期刊行物、なかでも日刊新聞がジャーナリズムの中核メディアである」と書かれている。語源からしてもラテン語の「日々の」からきている。
ジャーナリズムということばが日常的に使われるようになったのも、日刊紙が新聞のパターンとして一般化した19世紀初頭以降の欧米である。20世紀にはいると、映画、ラジオ、テレビが登場するなど多メディア化が進展することとなるが、ジャーナリズムの中心的機能は「時事的な事実や問題に関する報道・論評」の伝達にある。
このような報道機能には真実性と客観性、また論評機能には批判性という規範性が不可欠な要素である。
よって、規範性などのかけらもない通常のマス・メディアとジャーナリズムには、重なる部分はさほどなく、厳然たる違いがあることを、出し手も受け手も考えなければならない。
決して広義にとらえる必要はなく、「規範」を中核に置くべき性質のものである。
一定の問題意識と見解にたった論評を行うことを通じて、社会の神経組織としてと同時に、市民的自由ないし民主主義のための監視・警報装置としての役割が歴史的に負託されてきた。
その限りにおいてジャーナリズムには公共性がある。
欧米では、17世紀絶対王制下に生まれた近代新聞は、特許検閲制度と闘いながら市民的自由を要求する市民革命推進の有力なばねとして働いた。その結果、新たに成立した近代国家の下で出版の自由に関する憲法的保障が確立され、ジャーナリズムの中心的機能たる報道・論評の自由が承認されるに至っている。
日本のジャーナリズムは明治維新後に始まり、初期に「政論」ジャーナリズムが主流だったが、大正時代に新聞の政党離脱が進み、全新聞が不偏不党を唱え、かつこぞって大衆新聞化した。
国家による検閲は言語道断であるが、とはいえ、公平・公正・中立とはいいがたい部分も否定できないが、この程度ならいい方だとするしかない。なぜなら、自由を標榜する限り、さまざまな意見を持つ自由が保障されているため、すべてにいいとする立場などなく、バランスを取らざるをえないうえに、メディアは権力におもねる習性が組み込まれているからだ。
最近では、選挙妨害をするのも「表現の自由」とのことで、客観的に見て言語を超えた連中が「カルト」化するのではという懸念を高めているようだ。
カルト(英: cult)は、ラテン語のcolo(動詞:耕す)から派生したcultus (名詞:耕作、世話、崇拝など)を語源とする言葉である。
フランス語(仏: culte)では、宗教の宗旨別を意味し、学術用語としてはカリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まりを指す。
カルトだからと言って存在祖物が違法なわけではない。多かれ少なかれ原理主義とはそうしたもの。ただし、暴徒化した時点で違法とするのが現行法の理念。予防拘禁の是非判定は難しい。