ヒトラーのためのヴァンゼー会議

ヴァンゼー会議が、1942年1月20日に開かれた。その前から「アインザッツグルッペン」という部隊が組織され、主としてユダヤ人を殺害していた。これを組織したのが「ハイドリヒ」であった。
ハイドリヒは「中間的な部下」が大嫌いであったため「軟弱な知識人」にこの殺戮任務を負わせることでナチズムと運命共同体にして反ナチ派となる可能性を奪いとろうとした。
また、規律違反などして懲罰を受けたような者たちは、率先して「アインザッツグルッペン」に志願して率先して殺人者になった。「アインザッツグルッペン」への配転を拒否すれば「銃殺」であった。
一方、エストニア人やリトアニア人、ラトビア人、ウクライナ人など現地の対独協力者も補助警察官としてアインザッツグルッペンに参加しているが、彼らは熱狂的な反ユダヤ主義者であり、自ら望んで殺戮していることが多かった。
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しかし、ユダヤ人は広範に居住しており、官僚はそれぞれの思惑で動いていたため、「各省庁がユダヤ人の抹殺を必ずしも優先事項として取り扱わなかった」ことを反省した。
そこで、ユダヤ人の絶滅を優先事項とすることを再確認し、関係省庁の上層幹部に必要な権限を取り戻し、複雑に絡み合う官僚組織の多くが最終的解決を共同して実行できるようにするため、ヴァンゼー会議が開催された。



左がハイドリヒ(1904年3月7日 - 1942年6月4日)。真ん中は「ヴァンゼー会議」でハイドリヒを演じたフィリップ・ホフマイヤー。右は「ナチス第三の男」でハイドリヒを演じたジェイソン・クラーク。
会議の議事録はアイヒマンと、その秘書によって作成された。
ユダヤ人をせん滅するにあたって、まず、ユダヤ人の財産を没収し、主としてスイスの金融に預けておき、敗戦後の親衛隊残党の逃亡資金や生活再建費用ぬ運用した。
また、ユダヤ人を単にせん滅するのに使う弾薬は対ソ戦に回すべきで、東部に送り込んで重労働に従事させることで社会基盤の整備をさせながらも、苛酷な奴隷労働で死亡していくことも期待されていた。
薩長に逆らった幕府側の浪人を蝦夷開発に使ったのと同じ発想。
ハイドリヒの父は音楽家。母はザクセン王国のドレスデンの宮廷で宮廷顧問官をしていた音楽研究者ゲオルク・オイゲン・クランツ教授(Georg Eugen Krantz)の娘。
ハイドリヒは第一次世界大戦には入隊できる年齢ではなかったため、出征していない。ハイドリヒにはユダヤ系という噂があり系譜学者に純粋なドイツ系であることを証明してもらっている。容姿は北方的であり「金髪のジークフリート」などとも呼ばれることがあった。
第一次世界大戦後、ドイツは経済的に困窮し、ハイドリヒは15歳でドイツ義勇軍に参加し、反ユダヤ思想に傾倒していく。
1931年にハイドリヒはヒムラーの面接を受ける機会を得、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に参加する。ヒムラーの片腕として党首であるヒトラーの邪魔になりそうな人物の徹底した調査を行いハイドリヒの組織が急速に拡大していった。
ポーランドにゲットーを作ったのもハイドリヒによるものだった。ゲーリングとヒムラーの関係がよくわからないけれど、ヴァンゼー会議はゲーリングの「ユダヤ人問題の最終的解決」という指示によるものでハイドリヒは国家保安部の本部長になっている。
要するにハイドリヒは「ホロコースト」の最高司令官となっていた。その立場で開かれたのがヴァンゼー会議であり、この会議でナチス政権は正式にユダヤ人絶滅を取り決めることとなった。
最終解決の実行は即時に行うとされ三大絶滅収容所において153万人が虐殺された。
ハイドリヒはプラハでパルチザンによって暗殺され事となる。
プラハ近郊にある500人ほどの人口の鉱山労働者集落リディツェ村が「暗殺部隊を匿った」として、リディツェ村虐殺が開始された。成年男性村民200人弱はその場で銃殺された。公式に拘束されたチェコ人だけでも3188人に及び、1357人がプラハとブリュンの即決裁判で死刑判決を受けた。
ヒムラーから全幅の信頼を得ていたが、ハイドリヒはヒムラーにもヒトラーにも心服していなかったようだ。
ゲーリングから「HHhH(Himmlers Hirn heißt Heydrich、「ヒムラーの頭脳、すなわちハイドリヒ」の意)」と嘲られていた。図書館に「HHhH」が届いているので後で取りに行かなくては。
何が言いたいのか
ホロコーストはドイツ民族だけが起こし得たのか? 似た状況が日本にもあったら日本人が国を挙げて他民族のせん滅に夢中になったのだろうか?
起業してトップに立つことは、往々にしてあることだけれど、巨大組織にいきなりトップに立つことはない。熾烈な競争を勝ち抜くとは言うけれど、実際には時代遅れの間抜けな権力者が、自分の不足を補うために有能な若手を腹心にして権力をもたせる。
日清・日露で青年将校で活躍したような軍人や政治家は、大正・昭和に入るころには重鎮になっていた。その彼らの時代遅れの思想と権力によって抜擢された若手軍人によって戦前の陸海軍の思想が作られている。
和製ハイドリヒが誕生しなかったのはたまたまなのか、やはり民族(を支える文化)の違いなのかは分からない。
ハイドリヒもヒムラーに出会わなければ違い人生を歩んだのかもしれないが、歴史は一つの事実しか示さない。