ロシア軍が「飢餓」を戦争手段としていた
1581(天正9)年、羽柴(豊臣)秀吉は鳥取城の兵糧攻めを敢行した。鳥取城の周りに築城し、近在の米を通常より高値が買い占め、さらに農民を城に追い込んで兵糧を早く尽きさせた。
そのうち食べるものが無くなると共食い(カニバリズム)がはじまった。
翌1582(天正10)年になると、備中高松城を水攻めをした。湿地にあった高松城を取り巻くように堤を作り、湖のようにして高松城を孤立させた。
高松城の危機を知り毛利元就が軍を出すと秀吉は信長に援軍を要請する。そこで信長は家康の接待をしていた光秀に秀吉の援軍に向かうように命じ、自らは本能寺に入って備中に赴く準備をした。
そこで光秀が信長を殺害し、毛利に密書を託したが、それを秀吉がキャッチし、毛利と和睦し城主・清水宗治らは、小舟に乗って秀吉の本陣に行き、
杯を交わした。そして、宗治は舞を踊った後、「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句をしたため、自害した。
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ここから光秀誅殺への行動に移る。信長が暗殺されたのが6月2日で、秀吉が密書を手に入れたのが3日。毛利と和睦し清水宗治らが自害したのが4日。その午後に光秀追撃を開始しています。
歴史は秀吉に都合よく動いたようですが、それが事実だから秀吉の時代になったのか、そうした事実を作ったのが秀吉だったのかは、いまからでは推測の域を出ませんが、兵糧攻めをかけられ飢餓に苦しんだ数多の人々の思いや声は今に伝わってはいません。
5日に信長殺害を知った毛利では、秀吉追撃をしようという意見も出たが講和で誓紙を交わしたのだから卑怯はやめるとして動かなかった。
ロシアは、ウクライナを困窮させるために計画的に生活インフラへの攻撃を行い、水を求めて列を作っていた民間人の列や病院の近くへ爆撃をし、スーパーの外にできていたパンを求める人の列へも攻撃をしているそうです。
どちらに、どれだけの正義があって、どちらに、どれだけの不正義があるのかはわかりません。日本国内にもロシアの肩を持つ国会議員もいて、意見は多様です。
武士(モノノフ)ならば「ウクライナにしろ、ロシアにしろ、名をその地の苔に残す」ようなあっぱれな戦いをして欲しいものです。
清水宗治の末裔は男爵として明治まで残ったそうです。