人を殺してはいけない理由

『文藝』37巻 2号 (1998年夏)。14歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないの? 」と聞かれた答え。

「なぜ人を殺してはいけないの?」と君は聞くけれど、なぜそんなことを聞くんだい? そもそも君は「人を殺したい」って本当に思っているんだろうか? 

ここでケースを3つに分けよう。
(1)君が誰か特定の人を殺したい場合。
(2)誰でもいいから、とにかく殺人ということをやってみたい場合。
(3)別に自分では誰かを殺したいわけじゃないし、殺人をしてみたいわけでもなく、ただ、なぜ世の中のルールとして「人を殺してはいけない」となっているのかがわからない場合。

(2)の場合、誰にも、つまりは私にも、君に殺される危険があるということになる! となれば、私は君の邪魔をした方がいい、ということだし、実際邪魔をするだろうね。極端なことを言えば、君はほとんど全人類を敵に回すことになりかねない。それでも人殺しがしたいんなら、やってみるといい。

(1)の場合はもう少し複雑だ。まず、(a)君の殺したい人が私だったら、また(b)私にとって生きていてほしい人だったら、私は困る。そして君の邪魔をする。だが(c)私にとって別にいてもいなくても関係ない人だったら? 私は君の邪魔をしないかもしれない。
でも、きっと別の人が、例えば君が殺したいと思っている当人が君の邪魔をするだろう。

こうしてみると(3)の場合に私がどう答えるかも何となくわかるよね。つまり「人を殺してはいけない」というルールの背後には多くの人々の「自分と自分の大切な人を殺されたくない」という希望があって、「人を殺したい」というそれに比べれば少数の人々の欲望とぶつかり合うんだ。

で、多くの場合、まさに多数派の方が勝つ、という訳さ。

人を殺してはいけない理由が開陳されているけれど、ロシアはウクライナに攻め込んで相互に殺し合いをしている。イスラエルは、ハマスというテロ組織に殺害あるいは人質として身柄を取られた報復に、いまだに近代兵器でガザを攻撃して、ハマス以外の多くのパレスチナ人を殺害している。

殺害しているのは政治家でも司令官でもなく、現場の兵隊だ。現場の兵隊は敵兵を殺したいわけではない。殺人をやってみたいわけでもない。命令によって殺害している。

殺してはいけないのが多数派なのに、欧米諸国は止めようもしない。日本には発言権も発言意欲も発言に足る思想性も歴史的根拠もないから、黙ってアメリカに追従するだけだ。

なのに、国内法では殺人の最高刑は死刑もあって、司法が裁くことになっている。その司法は裏金議員を一人も捕縛せず、その捜査を指揮した人材は検事総長になった。そういえば、故安倍晋三が総理大臣だった時に黒川という検事を検事総長にするために定年を延長させようとした。それで何がしたかったのかは不明だが、検察を故安倍晋三の友達にしたかったということは、もみ消したい事案がいくつもあったということだろう。

2024年となり、安倍案件とも言えそうな加計がらみで銚子に無理やり作った千葉科学大学の経営が思わしくなく、加計は銚子市に押し付けて公立大学にしようとしている。千葉科学大学は政治家や官僚を使って自治体からカネを吸い上げて大学を設立する「加計モデル」の原型となり、これを前例として愛媛に獣医学部を政治と官僚と自治体を動員して無理筋に設立している。

この千葉科学大学には、銚子から136キロ離れた八王子の裏金王子、萩生田光一が議員浪人中、客員教授として給料をもらっていた。今は政権の役職から離れているが、次なる総理大臣次第で役職に就けば、ゴリオシで銚子市の公立大学となるだろう。

とりあえず、人殺しでなければ良しとするしかなさそうだ。これが現実の司法であり、政治であり、国際政治であるとすれば、必ずしも「多数派」が勝つわけでもないが、とはいえ、多数派が勝つから今の自民党政治が安泰でもある。