例えばCD、例えば出版物

好きなアーティストの、好きな楽曲を買おうとすると、昔ならレコード、直近ならCDを買うことになります。だいたい、アルバム1枚に、「いいな」と思う曲は2、3曲くらいでした。

いまなら、1曲を狙い撃ちで買えるようになりました。

書籍ですが、だいたい1冊のページ数は、新書なら200~250ページ。通常の、いわゆる本になると250~300ページ。中には平気で300~350ページなどというものも少なくありません。

とくに、欧米人(主としてはアメリカ人)の翻訳本だと350ページを下回ることはめったにありません。

文書の書き方を説く本を読むと、欧米ではライティングを子供のころから訓練されている。論理的に思考する。パラグラフ・ライティングなどは当たり前。などと書かれていて、凡愚はひたすら「なるほど」と思うものの、図書館から借りてくる欧米人の翻訳本は、「いいかげんにしろ!」と言いたくなるくらい冗長なものが多い。というかほとんど。

本を書くということは、当然のことながら「章・節・項」のような構成が必要になる。それぞれの構成に従って、いいたいことを手際よくまとめていくわけで、読み手は「なるほど、なるほど」と読み進めていくうちに、その本を読む前よりはいささかであれ、利口になるわけである。

しかし、冒頭のレコードの話ではないが、出版物であるためには、出版社の利益が不可欠であるために、おそらくページ数への要望が為されるのだと思う。内容がてんこ盛りなら「減らせ!」となるし、希薄なら「盛れ!」となる。

欧米の出版物は、おそらくは後者で「とことん、盛れ!」と言われているのだろう。

文書の書き方を説く本を読むと、書き手次第ではなく読み手次第で書け。簡潔に書け。主張ばかりするな。等々いいことを山盛りに250ページ前後に書き散らしているけれど、読み手からして本当に欲しい情報は、概ね、いかなる書籍であれ20~30ページなのではないかと思う。

このデジタルな時代のハウツー本の在り方は、音楽が1曲単位で切り売りされているのだから、エッセンス単位で完結しているような売り方にすればよさそう。

どのみち人間の知識はAI化されるのだから、何かを学んで覚えるなんて滑稽なことになっていくのも時間の問題になってきた。知識を切り売りするのも「いまだけ」の商売になる。