「読後廃棄」と公務員の仕事の関係
山本太郎さんの追及も素晴らしいですけれど、その内容はともかく「読後廃棄」という言葉が耳に新しかったので、少し考えを述べてみます。
公文書は情報請求ができることを前提としています。官公庁の文書は、ほとんどが予算や執行する側の権力行使に関する文書になります。官公庁が執行する予算は、すべて税金で賄われています。公務員(官僚も含む)の給料も同様に税金で賄われています。
「公僕」などという言葉もありますが、読んで字が示すがごとくで国民に尽くすことを生業としているわけです。国家や地方自治を動かしているというような上から目線の仕事ではなく、国民のために各自の能力や専門性を生かして国民の円滑な生活に資するのが彼らの職務になります。
彼らの主要な職務は、専門的知識や知見を公平・公正・中立に生かすことで国家や地方自治に尽くすことになりますが、それには「公平・公正・中立」であることの「証拠」を残さなければなりません。
効率も能率も無関係な職務だからといって、役所に来てサンダルに履き替えて、後は5時までお茶をやっていればいいのではなく、少しは仕事をしなければなりません。
wikiで「文書主義」と調べると「役人が文書を作ることを仕事にしていること」のように書かれています。これは一面の真理ではありますが、表向きには、「公平・公正・中立」に予算を執行し、「公平・公正・中立」に権力を行使したという証拠(証明)のために文書を残さねばならないのが、彼らにとっての「文書主義」になります。
そこで「読後廃棄」という言葉に戻りますが、いかなる文書であっても、公務で作成した文書であるなら公民の財産であるわけです。なぜなら彼らがメシを食えるのは納税者がいるからで、それを「読んだら棄てろ」ということは、仕事をしなかったことに等しい所業になります。
悪名高い(けれどメディアが封殺したのであまり話題ならずに忘却されつつある)アベノマスクで400億円を超える無駄遣いがされた。その発注などの管理記録を後悔せよと訴訟を起こしたところ、関係した官僚は全てメールでやり取りし、メールボックスがいっぱいになったから廃棄したとのたまった。
こういう輩を厳罰の書しさえすれば、少しは正常化することができる。彼らは政治家を見下しており、国民(納税者)などは眼中にない。単に年貢を納めるだけの役割しか認めていないことがよくわかる。頭でっかちで屁理屈をこねる連中には「力(=厳罰)」の一発で従順にすることができるが、残念なことに今の政治には、その力さえない。
中島敦の「文字禍」という小説の中で「書かれなかったことは、起きなかったことだ」という会話があります。5年、10年の歳月の中で文書として残されていないことは、なかったことに等しいことになります。公務員の場合は、給料はもらったけれど、仕事はしなかったことと等しい所業と言えます。
公務員は、選挙で選ばれていないので民意を反映していません。その彼らが、自己の職務の証拠である文書を廃棄することが許されるなら、政治は不要になります。つまり、「読後廃棄」という指定は、自らの職務に対する責任を否定するだけではなく、政治を否定しており、つまりは国民を愚弄していることに等しいと感じました。
そもそも、国会中継などをみていると、知識(あるいは適正?)のない大臣閣僚は、後ろに座っている役人が差し出すペーパーを読まなければ回答ができないようですが、それは政治主導の否定で、大臣閣僚が公務員のしもべになっているような気がします。
それを山本太郎さんは、役人のやりたい放題を「政治主導」でやっていることとしてを是認するのかと詰問していますが、今の日本の政治は客観的に見て「官僚主導」で運営されているというのが実態じゃないでしょうか。
情報公開で黒塗りにするのも結構、読後廃棄も結構ですが、役人が気ままにそのような行いを放置してはダメで、部分的であれ全面的であれ、公開できない情報が含まれている場合は、政治判断によるべきです。選挙で選ばれた議員の責任において判断に関与するべきです。
そして、公開できない場合は、その理由、その決定者(政治家の名前)、何年後に公開するかを明記することが必要で、そんなマナーを民主主義というのではないでしょうか。
公開できない文書も中にはあると思います(防衛、公安、個人保護、企業秘密など)が、10年以上公開できない場合は、せめて首長(国なら担当大臣と総理大臣)の裁可と理由と、そして10年ごとの見直しなどを義務付けるべきでしょう。