哲学してますか
普通に生活している分には「哲学」など、かすりもしません。
「東洋経済」に「なぜ哲学は多くの人が挫折する学問なのか?」という記事があったのでざっと目を通してみましたが、感想とすると「挫折」どころか、「無意味」「無価値」であると感じざるを得ない記事という感想です。どうして、こんなに平板で奥行きも深みも感じられない記事で「哲学」を語ろうとするのかが不思議でした。
「哲学」の語源は「知を愛する」という意味のようで「フィロソフィー」が明治になって入って来たので西周が造語したとされる。が、中国の西学(日本の洋学にあたる)が「賢」を「哲」に改めて「希哲学」という語を作り、それをフィロソフィアの訳語としたのをパクッて「希」を捨てて「哲学」としたという説もあるようです。
「哲」の意味に「賢人・知者(賢)、事理に明らか(明)、さとし(敏)」などがあった。要するに「知るを愛する」が「哲学」の根源ということになります。「愛知県」は違う漢字で言い表すなら「哲学県」になるでしょう。
哲学は何の役に立つのだろうか?
ウィトゲンシュタインは「哲学は何のために学ぶのだろうか。哲学が論理学の難問にもっともらしい理屈をこねられるくらいにしか役に立たないのなら、哲学が日常生活の重要な問題に対して考える力を向上させないのなら、哲学を学ぶ必要があるのだろうか」と弟子に言っています。
「確実性」「蓋然性」「知覚」といったことについて深く考えることは難しい。それよりも難しいのは、自分や他人の生活について誠実に考えること、考えようと努力することだ。これが、ウィトゲンシュタインの哲学を学ぶ理由だ。
カール・クラウスは言葉を実習する努力から、戦争が遠ざかると真剣に考えていた。
国籍、人種、民族、性別、政治信条に関して紋切り型の言葉で敵意や差別意識を拡大する流れに与しないためには、単なる賛意や反意だけではなく、「言葉を選び取る責任」を自覚し、中身のない他人の言葉や世間で言われる常套句に染まるのではなく、思考することにこそ「哲学」があるとしています。
政治家に期待するものはあまりありません。東大の法学部を卒業して官僚になり、政治家を盾にして国家運営を思うままにしているようですが、彼らこそが真摯に「哲学」を学び実践するならば、少しはまともな国家運営になるかもしれません。
しかし、哲学を学び、哲学を実践するようなら、そもそも官僚などにはならないのでしょう。